メッセージ(大谷孝志師)
心の内に潜む罪
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年8月6日
マタイ5:27-32「心の内に潜む罪」 牧師 大谷 孝志

 祈祷会で山上の説教を学んでいるが、約三章の長い説教の中に数多くの厳しい教えがある中、今日の箇所も、他人に知られたくない心の内に潜む罪についての教えで、読む者にとって恐ろしさすら感じさせられる箇所の一つと言える。しかし、何も感じない人もいると思う。ドストエフスキーの小説に「罪と罰」がある。中学生の時、図書館でこの小説を読んだが、ただ気味の悪い小説にしか感じなかった。神学生になってから、先輩が「質屋の老婆とその妹を殺し、証拠が不十分で罪に問われないものの、その罪の故に悩み苦しむラスコーリニコフは自分そのものだ」と話すのを聞いて新たな興味を覚え、読み直した。確かに断罪できない罪に苦悩するラスコーリニコフと彼を愛し、「今すぐ行って四つ筋に立って、四方八方に頭を下げて世界中に聞こえるような大きな声ではっきりと「私は人を殺しました」と言いなさいと迫るソーニャに深い感動を覚えた。しかし、彼の姿は自分そのものとの思いは、自分の内に湧き上がってこなかった。高校から直ぐに神学部に入った私には、そのような深い人間理解、自己理解はまだ不可能だった。その後、人生の様々な経験を重ねる中で、彼と自分が同質の人間と分かってきた。

 私が罪と罰を最初に読んだ時、ただ気味の悪い話と思ったように、今日の箇所も自分に関係のない話としか感じない人もいると思う。今日の「姦淫してはならない」は十戒の中の戒め。しかし主は「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯した」と言う。昔の流行歌に「男はみんな狼よ」という歌があった。確かに程度の差こそあれ、男なら誰も情欲を抱いて女性を見た経験があるのでは。でも、それを理性で抑制し、実行しなかっただけと私は思う。しかし主は、その人は、「姦淫したのと同じ」ではなく、心の中で既に姦淫を犯したと厳しく断罪した。単に外に現れる罪だけでなく、外に現れたものでは正当と見做される行為であっても、心の内に罪が潜んでいれば、それも罪と厳しく指摘した。

 私達人間は、他人に厳しく、自分に甘い面を持つ。また、同じ事を言われても、親しい人と余り親しくない人、好きな人と嫌いな人では違う反応をしてしまうのでは。ちょっとしたミスでも、親しい人や好きな人に「仕方ないよ」と言われ、「ごめん」で事が済んでも、嫌いな人、親しくない人に同じ事を言われ、その声や調子がどんなに優しそうでも裏を考え、それは建て前、本音は違うと考えてしまう。それでは人は幸いな生活が出来ない。主はここで罪を犯させた目を抉り出し、手を切り捨てよと言う。人間関係を壊させた物を取り除けと言う。主は私達に自分が犯した罪の重さを知れと教える。御前に正しい者として生きることを神が求めるから、神は人の心の内まで知るから、自分に甘えず、心の内から聖くなれと教える。罪の重さを知ることは必要。だが恐れる必要はない。それは神に喜ばれる者となる為だから。主に切り捨てよと言われ、罪を犯したものを切り捨てたら、何も残らないのが私達。しかし、その私達だからこそ、私達の為に、主は自分の右手や右の目だけでなく、全てを捨てて十字架に掛かって「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ程の神との断絶を味わった。

 主は私達に厳しい事を言う。それは私達がそれ程深い罪の中に生き、私達がそれを自覚していないから。それ程、主が私達を愛しているから。この主の言葉を心に刻み、十字架の主の私達への愛を心に刻もう。その時、私達は神のみ前に正しい者として立たされているのに気付き、主と共に世に生きる者になれるから。