メッセージ(大谷孝志師)
罪を憎んで人を憎まぬ主
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年8月13日
ヨハネ8:1-11「罪を憎んで人を憎まぬ主」

 この世の様々な出来事を見ていると、何故この人はこんな罪を犯してしまったのかと思うことがあります。罪を犯さずにいられたら、平凡でも日々を安心して、昨日迄のように、明日も明後日も生きていられたであろうにと思うからです。罪を犯すのは悪いことです。しかし、その人はその罪を犯してでも自分の生活を守らなくてはならない事情があったのだと私は思います。

 今日の女性もそのような人の一人だったのではないでしょうか。彼女は、姦淫の現場で捕らえられ、律法学者やパリサイ人に主イエスの所に連れて来られました。彼女が連れて来られた目的が7章に暗示されています。7:1に「イエスはガリラヤを巡り続けれた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとされなかったから」とあります。しかし、主は各地のユダヤ人がエルサレムに巡礼に来る祭りの一つの仮庵の祭りが近付いた時、エルサレムに上り、宮に上がって教え始めました。その主イエスを見てエルサレムのある人達が「この人は公然と語っているのに、彼を殺そうとしている人々は何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると本当に認めたのではないか」と言い始め、人々の間に混乱が起きたのです。

 パリサイ人達が宮でのイエスの話を聞いて、イエスを捕らえようと下役達を遣わしました。しかし、彼らは主の話を聞いて感銘を受け、捕らえることが出来ず、パリサイ人達の所に戻って来たのです。そのような宮での出来事があった後、人々はそれぞれの家に帰り、イエスもオリーブ山に行きました。

 そして朝早く再び宮に入ると、人々がみ許に集まって来ました。主は腰を下ろして、人々に教え始めました。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえられた女性を主イエスの所に連れて来て、そこにいた人々のの真ん中に立たせました。彼らが彼女を主いる所に連れて来たのは、イエスを律法違反で告発する為の理由を得ようとしたからです。申命記に人が様々な律法違反の罪を犯した場合の処置の仕方が書かれています。その22:23,24に「ある男と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見掛けて一緒に寝た場合、あなたがたはその二人をその町の門の所に連れ出して、石を投げて殺さなければならない」とあります。彼女が姦淫の現場で捕らえられたということは、言い逃れの出来ない罪を犯していることを示しています。もしその彼女を主が赦しなさいと言うなら、主自身が明らかに律法違反をし、神の言葉である律法を冒涜したことになるので、イエスを議会に告発し、イエスが有罪との裁決が下れば、イエスを望み通り殺すことが出来るからです。

 それに、その主の判断は、社会の公序良俗に反することになり、如何に主の教えに感銘を受けている人々であっても、それはおかしいという気持ちを起こさせ、逮捕を納得させることが出来ると考えたからです。それに加え、主イエスが日頃の活動の中で、どんな罪人であっても、神に赦しを求めるなら、神は赦し、神の民の一人として受け入れて下さると教えていたのに、この女性が姦淫の現場で捕らえられるという言い逃れの出来ない罪を犯したとしても、石打ちの刑にせよと言えば、主イエスが示す、神はその人々をあるがままで受け入れ、その人に必要な事をして下さるという新しい主の教えに、新しい世界の到来を期待して主の許に集まって来た人々が失望し、主から離れる結果になり、これもパリサイ人達が求めることで、どちらにしてもイエスを危機に陥らせることが出来ると彼らが考え、彼女を連れて来たのです。

 しかし主イエスは、律法学者とパリサイ人の問い掛けに答えず、地面に何か書いていました。彼らは主に彼女を裁かせ、その裁きを用いて、主を裁こうとしたのです。しかし彼女を裁こうとしているのは彼らだけでなく、自分に教えを求め、教えに聞き入っている周囲の人達も同様と主は知ってました。

 パリサイ人達は、イエスから告発する為の言質を取ろうと問い続けました。すると、主イエスはを身を起こして「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言いました。そして再び身を屈めて、地面に何かを書き続けます。石打ち刑は、窪地の底に立たせた犯罪人に皆で上から石を投げつけて殺すものです。殺人の罪意識を自分が持たずに人を殺せます。しかし主は、彼女に石を投げるなら、その死に責任を負うので、自分に投げる資格の有無を問えと言ったのです。罪がないと思う者だけが石を投げて彼女を殺す資格があると教えたのです。ですから主は、律法を否定して、彼女が犯した姦淫の罪は死刑に当たらないと、無罪を宣告したのではありません。

 主が人々にこう言ったのは別の目的がありました。2節に「彼らに教え始められた。」とあります。主が神の福音を宣べ伝え、「見よ、わたしは新しいことを行う。今や、それは芽生えている。あなたがたは、それを知らないのかのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける(イザヤ43:19)」との預言が実現し、新しい時が既に始まっていると知らせようとしたからです。

 彼女は確かに罪人です。しかし主が山上の説教の中で「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中で姦淫を犯したのです」教えたように、明確な律法違反をしていなくても、また他人に気付かれていなくても、何らかの罪を人は犯しています。ですから人が生きる社会が、安心できる社会である為に、罪を犯せば罰せられることが必要です。神はイスラエルを選び、守り導き続けましたが、彼等は神に喜ばれる正しい人として生きるより、自分や相手を喜ばせることを第一とし、自分や相手を傷付けても仕方がないと思い、罪を容認していたので、罪を罰する律法が必要でした。しかし今私達は、十字架と復活の主イエスを信じ、救われ、永遠の命を得られ、互いに神の愛をもって愛し合い、神と人と共に生きています。主が世に来て、ご自分の十字架の死による贖いと復活により、罪人である私達が神の国に生きる者とされ、律法は人を罰するものではなく、人が神と共に生きる為のものとなっています。

 さて、姦淫の現行犯として捕らえれた彼女を見ていた人々は、主の言葉を聞き、年長者から始まり、彼女を捕らえたパリサイ人達も含め、皆去って行き、彼女と主だけが残されました。主が身を起こして「だれもあなたに裁きをくださなかったのですか」と言うと「はい、だれも」と彼女は答えました。すると主は「わたしもあなたを罰しない。これからは、決して罪を犯してはなりません」と言います。無罪ではなく、罰しないと言ったのです。私達も罪を悔い改め、救われていますが、主が罪人の私を受け入れてくれたからです。自分は罪人との意識を常に持ち、決して罪を犯さないようにしましょう。しかし、罪を犯したら滅ぼされるのではありません。主は私達が弱く「したいと願う善は行わないで、したくない悪を行っ」たのを知ります、ですから、罪を犯した私達を滅ぼさずに、世に神の子として生かしている。その主にしっかりと心を向けて、決して罪を犯さないとの思いは持ちましょう。自分の力では無理ですから、主よこの私を助け、あなたのものとして愛し、受け入れ、共に生きて下さいと願えばよいのです。犯した罪に押し潰されず、ただ主に寄り縋り、主に喜ばれることを第一にする者となって世に生きましょう。