メッセージ(大谷孝志師)
福音を宣べ伝える者に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年8月20日
コロサイ4:2-6「福音を宣べ伝える者に」

 パウロは、夫婦、親子、主人と奴隷の家庭内の人間関係の正しい在り方を教えた後、この教会が神の教会、キリストの体である教会として、託された福音を正しく伝え、成長する群れとなる為に、三つの勧めをします。

 初めに彼は「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい」と勧めます。この「たゆみなく祈りなさい」は、祈りに固着し、専念しなさいという意味です。祈っても直ぐに応えられないことが多いのが私達の現実です。しかしそこで、祈ることに倦み疲れて止めてしまったら、神から目を離させようとする悪魔の思う壺にはまってしまいます。その為にも、祈りに固着し、専念していることが、神に喜ばれる群れとして成長する為に必要なのです。また、主が祈りに答えないのは、私達の為である場合もあります。祈りに答えられることによって、信仰が強められるのは確かです。しかし、倦むこと無く祈り続けるその中で、信仰が養われ、主にしっかりと心を向けて生きられるようになることも確かなのです。祈りに固着し、専念することは、私達の信仰をより豊かなものにする為の訓練の時でもあるのです。

 パウロは、倦むこと無く祈り続けるだけでなく、感謝をもって祈ることが大切と教えます。私達には求めることがたくさんあります。私達が祈りに答えてもらえないと思っている時、多くの恵みを戴いていることを忘れている場合が多いのです。ですから私達は、その恵みを数えつつ、恵みを与え、私達を守り導く主の愛に感謝しつつ祈ることが必要なのです。そうすることで、私達は希望と力を与えられ、悪の誘惑に負けずに祈り続けられるからです。

 次に「目を覚ましていなさい」と言います。これは、ただ眠らずに祈りなさいという意味ではありません。祈る時、私達は目に見えない神に話し掛けています。その事を意識して祈りなさいという意味です。目を覚ましていない祈りとは、惰性で祈っている場合だけでなく、危機的状況の中で祈る場合もそうです。祈る時、神にしっかりと心が向いていなかったり、自分を危機に陥れている事柄だけに心が向いていて、神に祈っているようで、実は自分の心との対話になっていることに気付かないことが有るからです。言い換えるなら、霊的に目覚めた思いで祈ることです。彼がこう言うのは、私達が真剣に神に心を向けて祈ることによって、私達の信仰が成長していくからです。

 この目を覚まして祈る祈りには、お手本があります。主イエスのゲッセマネでの祈りです。主のように私達も「アバ、父よ」、天にいるお父さん、と親しく呼び掛ければ良いのです。そして神の御手に自分の全てを委ねましょう。自分の思いを素直に告げ、御心のままになさって下さいと祈れば良いのです。次に彼は、福音を宣べ伝えている「私たちのためにも祈って下さい」言います。主は彼に福音宣教の働きを託し、彼は聖霊の助け導きによって福音を宣べ伝えています。「神がみ言葉の為に門を開いてくださって」、彼に「キリストの奥義を語れるように」しているからです。しかし、彼が自分の為に祈って下さいと願うのは、この教会の人々にとってこの祈りが必要だからです。福音を宣べ伝えるのは彼ですが、彼の働きの為に彼らが祈ることによって、彼ら自身が彼の福音宣教に参加し、祈りをもって支えていると感じられるからです。福音宣教の恵みが自分達にも与えられ、パウロと共に味わえるだけでなく、彼ら自身が福音宣教の大切さを教えられ、勇気と希望を与えられるのです。彼がこのように願っているのは、彼ら自身の為だったからです。

 パウロは何故「神がみ言葉のために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください」と彼らに頼んだのでしょうか。彼は御霊に語るべき言葉と場所を与えられ、異教の地に住む人々にみ言葉を語り、多くの教会が誕生しました。神がみ言葉の為に門を開いて下さったからです。しかし彼は今、牢に繋がれていて、人々に伝えたいと思ってもできない状況を、門が閉じられていると彼は表現しています。門が閉じられていることにはもう一つの意味があります。福音は<キリストの奥義>だからです。奥義は英語でミステリー、「神秘的な事・不思議な物事・謎」を意味します。世の人々に「主イエス・キリストを信じれば救われます」「キリスト者になると、どんな困難な状況に置かれても、失望せず、希望をもって力強く生きられます」と言っても理解してもらえません。「主イエスが十字架に掛かって死んだけれど、復活して今私達と共に生きている」と言っても「あなたはそう信じているだろうが、そんな事は信じられない」と撥ね付けられるだけです。

 私達が家族や友人知人に福音を伝えようと思っても、困難を感じるのは当然と言えば当然です。でも、そこでがっかりしたり、弱い自分を情けなく思い、落ち込む必要はありません。神がみ言葉の為に、世の人々と私達の間あって固く閉じている門を開いて下されば、福音を人々の心に届けることが出来るからです。パウロ自身、直接神に門を開いて下さいと祈っていたと思います。でも彼は、この教会の人々にこう祈るよう頼んでいます。福音を宣べ伝える為には、彼らの祈りの後押しが必要だったからです。彼は素晴らしい働きをしていました。その彼にしても彼らの祈りが必要だったように、私達が伝える福音を世の人々に分かって貰うには、互いの為に、聖霊の助けと導きを祈り求め合うことが必要だからです。

 次にパウロは「この奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください」と頼みます。パウロにしても、この人々にどう語ったら良いのかと悩むことがあったようです。彼は聖霊が助けてくれたら、正しい語り方で福音をはっきりと伝えられたと信じています。私達も自分の考えで福音を説明しようと思っても無理です。でも出来ないと思わず、出来ると信じましょう。信仰の力は偉大です。彼は私達に「愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です(3:14)」と教えています。互いに祈り合うその愛という結びの帯を聖霊が用い、私達に福音を正しく説明させてくれるのです。祈りの力、信仰の力を信じましょう。

 最後に「外部の人たちに対しては、機会を十分に生かし、知恵をって行動しなさい」と世の人々への私達の接し方を教えます。私達が世の人々と接する機会があるのは、主がその人々に福音に接する機会を与えているからです。その機会を逃さず、十分に生かしましょう。その為には日常生活の中で思慮を欠いた発言をして、教会に悪い印象を持たせないようにしましょう。世の人と接する時、この世に調子を合わせ過ぎて、世の中に埋没してしまわないようにしましょう。

 更に、言葉が「いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」と彼は言います。笑顔で優しい気持ちで接するのですが、それが塩味の効いたものであることが大事です。人々がこの人達は何か違うと感じたり、ハッとするような印象を受ける言動をすることが大事なのです。難しく聞こえるかもしれませんが、人々を十字架と復活の主イエスの愛で包み込み、主の愛の世界に導き入れる為には、主が私達を愛したように私達が世の人達を愛することが必要なのです。そうすれば、その私達を聖霊が助け、「一人ひとりにどのように答えたら良いかが分か」る私達になれるからです。