メッセージ(大谷孝志師)
真理を探求したコヘレト
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年8月27日
伝道者の書1:1-18「真理を探求したコヘレト」

 表題は「伝道者の書」ですが、ヘブル語原典は「コヘレトの言葉」で始まるので、新共同訳は「コヘレトの言葉」とし、文語訳、口語訳聖書は「伝道の書」ルター訳のドイツ語聖書では「説教者ソロモン」英語訳聖書ではEcclesiastes「集会を司る者」としています。1:1に著者はエルサレムの王、ダビデの子とありますが、1:12に「私は、エルサレムでイスラエルの王であった」と過去形なので、著者は終生イスラエルの王だったソロモンではないのが定説です。この書の著者は人生について深く洞察し、人生とは何かを知ろうとした人です。彼は先ず「空の空、全ては空」と言い、人がこの世でどんなに労苦しても何の益にもならない、と言います。私達も主イエスを信じ、神に喜ばれる者となるよう、自分や他の人の益となるよう様々な活動をしています。しかし、それが徒労に終わってしまった経験を何度もします。信仰の喜びや楽しさを味わいますが、それと同じように信仰の苦しみ、悲惨さをも味わっています。主を信じるとは、祈るとは何だろう、何の為に主を信じているのだろう、何の為に祈っているのだろう、と考え込んでしまう時もあります。

 彼は、この世に生きている間、様々な苦労をしているが、労苦することに何の益があるのかと、自分に問い掛けています。箴言22:23に「いかなる労苦にも利益がある。無駄口は損失を招くだけ」とあります。確かに無駄口を叩いているだけでは何事も前に進まないのは事実です。パウロがTコリント15:58で「いつも主の業に励みなさい。あなたがたは、自分達の労苦が主にあって無駄でないと知っているのですから」と言うように、私達も前提として、主の業には労苦が付きものであるとは知っています。しかしたとえそうだとしても、自分達にとって何の益も感じられない時、先が見えない危機的状況に陥ってしまった時は辛いです。ですが私達は、主イエスを信じています。ですから「自分達の苦労が主にあって無駄でない」との信仰に立つことができ、これには自分には分からないが意味があり、主が今は必要だからこうしていると考え、これは「わざわいではなく、平安を与える神の計画によるもので、将来と希望を」神に与えられているので、主に全てを委ねて安心していれば良いと考えられます。しかし彼は、自分の知恵で真理を知ろうと努力することに執着します。そして自分の探求が空であると最後に知ることになります。

 彼は「一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない」と言います。人は存在する限り、労苦をせざるを得ないのですが、世界そのものは何の影響も受けず、変わらず存続し続けるからです。先週、戦時中の様々な出来事が放送されていました。人は変わり、外見や性質は変わっても、今も同じ様な悲劇や惨劇が起きては忘れら去られています。この世の本質は変わることがないからです。彼は太陽は昇っては沈むが、元の場所に戻るだけ、風も様々な吹き方をするが、絶えず循環しているだけと言います。川も海も同じで、川は海に流れ込むが涸れることなく、海も満ち溢れることなく、変わらない姿のままです。確かに世界は絶え間ない運動と活動の舞台となっていますが、全てのものは活動しても、その運動を繰り返すだけで、運動が目的になっているに過ぎないのです。それらは終わりのない労苦であり、人がそれに意味も目的も有ると思っても、或いは意味と目的を持たせようとしても、全ては空で、虚しく、中身は無いと彼は言い切ります。自分の知恵と知識で全てを判断し、真実を見出そうとする彼に、主イエスを信じないで、自分の力で生きようとする世の人々の姿を見ることができます。

 「伝道者(コヘレト)である私は、…天の下(この世界)で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた」と言います。彼は、この世に起きる様々な事柄の実体を見極めようとしたのですが、全てが単調な繰り返しに過ぎず、そこに何の意味も見出せなかったからです。しかし彼は、知的欲求を抑えきれず、どうしても真実を探求せずにはいられなかったのです。彼はその思いを「これは、神が人の子ら(人間の息子達、人間一般を指す言葉)に、従事するようにと与えられた辛い仕事だ」と言いました。彼にしても未知の領域に踏み込むことの恐ろしさを感じ、そう言ったのだと思います。私達もこの世で起きる様々な事を考える時、意味が分からず、悩むことがあります。先日、台風による災害がありました。昨日までの生活が一変し、懸命に復旧しようとしていましたが、その苦労は計り知れないと思います。ウクライナを始め、各地に戦争があり、多くの人が殺されています。いたいけな子供達が武器を持って人を殺し、殺されるニュースに、私は居たたまれない気持ちになりました。また、日本飢餓対策機構の報告を見ると、原因や理由は様々ですが、世界では 1分間に17人が飢餓が原因で亡くなり、その内の12人は子供だそうです。それらの事に何の意味と理由があるのか幾ら考えても私には分かりません。コヘレトも自分が知りうる限りの全ての事を見たが「見よ、すべては空しく、風を負うようなものだ」と言います。何故そのような事が起きたのかを幾ら考えても、得体の知れない物事であり、そこに何の意味があるのかは、全く分からないとしか、人には言えないからです。

 続いて彼は「曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることは出来ない」と言います。日本でも江戸時代から言われている言葉に「死んだ子の年を数える」があります。「死んだ子がもし生きていれば、今頃は何歳になる筈だと年齢を数えることから、言ってもどうしようもない過去の事を悔やむことの例えです。事実起きてしまった事は、元通りにすることは決して出来ないのです。私の前任教会の地域でも、ひどい土砂災害がありました。大勢のボランティやの人々が、床上浸水で泥まみれになった家の清掃をしました、頭が下がりました。しかし幾ら清掃しても、その事実の記憶を心の中から消し去ることは出来ません。更に世には、殺人や凶悪ないじめによる自殺が起きています。その被害者は、殺人にしろ、自殺にしろ、この世での人生を終わらされたままなのです。決して元には戻りませんません。遺族の方々にとっては、正に取り返しの付かないことなのです。

 コヘレトは自身のことを「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た」と言います。T列王記4:29,30に「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂のように広い心を与えられた。ソロモンの知恵は東のすべての人々の知恵とすべてのエジプト人の知恵にまさっていた」とありますが、著者はソロモンのように、素晴らしい人だったのだと思います。そのコヘレトは、「知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決め」たのですが、それもまた、風を負うようなものであり、泥沼の中をあえぎなら進むしかなかったのです。それで「実に、知恵が多くなれば、悩みも多くなり、知識を増す者には苛立ちも増す」という現実に直面するしかありませんでした。私達は父なる神に愛され、主イエスを信じ、聖霊に教え導かれて生きています。しかし人としては、その時々に直面した問題に、自分の知恵と知識でその物事を判断し、善悪を見極めながら世に生きています。だからこそ、伝道者の書の学びをを通して、世に生きるキリスト者としての私達の生き方を学んで生きたいと思います。