メッセージ(大谷孝志師)
今を喜んで生きる為に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年9月3日
Iテサロニケ5:12-22「今を喜んで生きる為に」

 今日の聖書のみ言葉は、皆さんに与えられている神様の言葉です。皆さんが生きているから、今ここにいる皆さんにもできることだから、聖書はこう教えているのです。以前、働き盛りの二人の牧師が立て続けに死にました。二人共、五十代で教会の人々と喜怒哀楽を、祈り、礼拝を共にしていました。しかし突然神様に天に召されたのです。皆さんは今生きているので、こうして集合教誨に出て、私の話を聞いています。生きているからこそできることなのです。刑務所暮らしは外での暮らしとは全く違い、多くの労苦はあると思います。それでも皆さんは生きているのです。この事実にしっかりと立ってこの刑務所の中で生きてい欲しいと思います。死んでしまったら、人はこの世で何もできないのです。しかし、皆さんは生きているので、様々な人との関わりの中で喜怒哀楽を経験しながら、様々なものを吸収しながら、変化し、成長しているのです。神様が皆さん一人一人にしか出来ない事をさせる為に与えた人生の中のこの時を今生きていることを知って欲しいと思います。確かに自由を束縛され、多くの制限の中に生きる人生であるかもしれません。でも神様は、皆さんに無限の可能性を今も与えていることも知って欲しいと思います。皆さんがどう思おうとも、神様にとっては皆さんも大切な一人一人だからです。この時をマイナスに考えるのではなく、プラスの時、ここでしか学べないことが学べる大切な時と考えてみて下さい。神様は皆さんに、喜びと感謝に満ちて生き生きと人生を送らせようと思い、この刑務所に入るようにしたと考えてみて下さい。そうすると、人生観が大きく変わります。プラス思考の人間になれるからです。自分への見方も変わってくるはずです。

 旧約聖書のイザヤ43:4に「わたしの目にあなたは値高く、尊く」とあります。自分は無価値、何の役にも立たない人間だとは思わないで下さい。以前教誨師をしていた岡山刑務所で個人教誨を受けていた人は、人の命を奪い、終身刑の人でした。でも、個人教誨を受ける中で、主イエス様を信じて救われました。確かに、人の命は果てしなく重いです。でもその命を自分は持ち、相手も持っていると心に刻んでいましょう。皆さんの命は、神様が皆さんを愛しているから、皆さんが大切から、与えたのです。

誰の人生にも、その人生に意味、目的があります。これを知ることができるなら人生が変わります。この事をキリスト教では救われると言います。だれでも救われます。何故なら、皆さんを救う為に、主イエス・キリストは二千年前に十字架に掛かって死に、三日目に復活し、今もここに共にいるからです。Uコリント4:18に「私達は見えるものにではなく、見えないものに目を留めます」とあります。誰の目にも主イエスの姿は見えません。でも心に思い浮かべることは出来ます。是非、ここに自分と共にいるイエス様を自分なりにで良いのです。心に描いてみて下さい。そうしていることで、前向きに希望を持って生きられるようになります。皆さんにそのような生き方があると知らせ、新しい人生に踏み出して欲しいからこそ、神様は私をこの尾道刑務支所に遣わし、この集合教誨で話をさせていると思って、この話をさせて頂いています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」と今日の聖書の中にありました。イエス様を信じられるとこの三つの生き方が出来るし、この三つをしていると、様々な事に前向きな生き方が出来るようになります。

 主イエス様を信じることは、確かに難しい事です。私は高校一年の時に教会に行き始めました。キリスト教って良いな、クリスチャンていいなと思ったからです。でもなかなか信じられませんでした。何ヶ月か教会に行っていると、イエス様を信じてクリスチャンにならないかと、先輩の高校生に聞かれましたが、信じられないものは信じられないのです。でも或る時、主イエスが信じられました。皆さんもとても信じられないと思っている思いますが、皆さんにもその時が来れば主イエスがいると分かり、信じられます。信じられるって素晴らしいことです。イエス様がいる、いつも一緒にいると分かると、自分は一人ぼっちでは無いと思えるからです。ですから、出来る時に、自分で聖書を読み、イエス様、神様、どちらでも良いですから、呼び掛けて祈ってみて下さい。いつか、神様、イエス様が自分とも一緒にいると分かる時が来ます。神様、イエス様は皆さんにその事を知って欲しいと望んでいます。すると、人生をやり直せるし、新しい人となって自分の人生を新しい気持ちで歩み始められるのです。

 個人的なことですが、私は最初の妻を失い、葬儀を終えた次の日のクリスマス聖日礼拝に黒ではなく、明るい背広に赤いネクタイを締め、晴れの服装で出席しました。愛する妻の死は悲しかったです。残された4歳と7歳の子供を思うと不憫でした。しかし神様は、妻を私達親子から奪ったのではないのです。長い短いは人の思いにしか過ぎません。神様は妻にその人生を与え、終わらせたのです。私達にとって妻と母のいない人生になったのですが、この人生を神様が私達に新しく与えた知ったのです。その時、この日は新しい人生の出発の日と信じられたのです。救われると、死がどんなに重くても、押し潰されず、新しく生きられます。それが救われるということです。

 どんな人でも人生やり直せます。救われると希望が、将来があると知るからです。神様は一人一人を大切な我が子と見ています。勿論、祈っても祈って変わらない場合もあります。この手紙を書いたパウロでさえ、ローマ7:24で「誰がこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と嘆きました。でもすぐ後で「私達の主イエス・キリストを通して、神に感謝します」と言います。生まれながらに完全無欠な人は誰もいません。私もそうです。でも神様に赦され、神様に遣わされているからここに立ってお話をしています。皆さんも。神様に赦されているからここにいるのです。神様に背中を押し出されてここに来ています。十字架に掛かって死に三日目に復活した主イエス様が、皆さんを救い、新しい歩みを始めさせようと願っているからです。 自分の人生、自分の命の重さを考えてみて下さい。この命は使う為、充実した人生を生きる為に自分に与えられた命です。今生きています。これからも生き続けます。ですからこの命を生きて、いつも喜び、絶えず祈り、全てを感謝して生きましょう。神様は、我が子の十字架の死を、あなたがたが無駄にしないで欲しいと願っています。こんな神様は他にいません。この神様が共にいると信じる信仰程強いものはありません。皆さんもいつも喜び絶えず祈りすべてを感謝して生きられるようになるからです。ここで生きる間も、刑期を全うして社会に出た後も、全ての事、出会った人々を、主が与えたものと人として喜んで、感謝して受け取りましょう。必要と思うものが今はなくても、神様は必要な時に必要なものを与えると信じましょう。自分が変わり、皆さんを見る人々の目も必ず変わって行きます。聖書はそのような人生を神様は与えると教えています。皆さんにとっても、皆さんの周囲の人にとっても嬉しいことになります。何より神様、そしてイエス様がそれを望んでいます。その為にこそこの集合教誨があります。自分の人生、自分の命を大切にして生きる一人一人になりましょう。