メッセージ(大谷孝志師)
主イエスは私達の光
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年9月10日
ヨハネ8:12-20「主イエスは私達の光」

 先月は姦淫の女性の話でした。彼女と主イエスだけを残し、パリサイ人を始めそこにいた人々は皆去って行きましたが、再び集まって来ました。主がその彼らに語ったのが今日の個所です。主は「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」と教えました。この福音書にはこの他にも、6:48「わたしはいのちのパンです」6:51「わたしは、天から下って来た生けるパンです」10:11「わたしは良い羊飼いです」等々「わたしは〜です」という言葉が数多く出て来ます。これらは啓示の言葉です。この世に生きる私達人間には分かっていない事実を、主が知らせた言葉なのです。例えば、主イエスという「いのちのパン」を食べるなら、つまり主イエスを信じ、主の招きに応えて自分が主を受け入れるなら、永遠の命を戴き、永遠に生きる者になれるとの「招きと約束の言葉」なのです

 主が人々に、ご自分が「世の光である」と啓示し、ご自分が何者であるかを教え、その事を信じるかどうかの決断を迫り、招きに応えるなら、救われると約束している言葉です。しかし、これを聞いたパリサイ人達は、イエスは「自分で自分のことを証しています。だから、あなたの証しは真実ではありません」と反論します。17節の「二人の人による証は真実である」とは、申命記19:15で「すべて人が犯した罪過は、一人の証言によって立証されてはならない。。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」と、証しについて決められているからです。 しかし主は「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です」と言います。その根拠を主は、自分がどこから来たのか、どこへ行くのかを知っているのだが、あなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知らないからと言います。この根拠には説明が必要です。ヨハネは1:1で「ことばは神と共にあった」、1:18でその「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」、3:16で「神は実にその独り子をお与えになったほどに世を愛された」と記し、神が人々を救う為に、御子イエスを世に遣わし、主が世にいる間も共にいて、主の言葉が真実と証ししているからです。

 更に、5:36に「わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証している」とあるように、彼らも、イエスがしている事をよく見れば、イエスが神が遣わした方であり、イエスが自分について語った証しが真実と神が証しているのが分かる筈だったのです。しかし彼らはそれらを見聞きし、確かに普通の人とは違うと思っても、イエスは自分達と同じようなただの人にしか思えなかったのです。ですから主の「わたしがどこから来て、どこへ行くのか」の意味が分からず、イエスの証しは、イエス一人の証しでしかないので、真実ではないとしか思えなかったのです。

 次に主は「あなたがたは肉によって裁きますが、私はだれも裁きません」と言います。人は自分の思いや価値基準で物事を判断し、相手を裁き、こうだと決め付けます。しかし主は人の心を見抜き、言動の意味と理由を知り、その人に真に必要な事をします。ですから、その事が分からず、自分から主との関係を断つ人はいても、主はその人を見つめるだけで、主の方から切り捨てません。裁かないのです。「神が御子を世に遣わしたのは、世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為(3:17)」だからです。しかし主は、たとえ、私が裁くとしても、私の裁きは真実と言います。世の終わりの日に主は私達を裁きますが、辛子種一粒の信仰があれば主は救って下さるのです。

 主イエスは人々に「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」と言ったのは。主はその事を示す方だからです。主に会うことによって、人は主に従うか、従わないかの分岐点に立たされます。救われるか滅びるかの分岐点です。これが主が下す裁きなのですが、従う従わないの決断はその人に委ねられ。その人が自分で決めることなのです。主に従うならその人はいのちの光を持つので、闇の中を歩むことがありません。主に従う決断をした者に、世の光である主が、いのちの光を持たせ、闇の中ではなく、光に照らされた道を歩ませるからです。

主イエスは、このようにご自分の証しが真実であることを宣言しています。ご自分を遣わした父である神が私について証ししているからですと。律法に「二人の人による証しは真実である」と書かれているので、彼らが自分達の神と信じている神、私を世に遣わした私の父である神が、目に見えないし、声も聞こえないけれど、私について証ししているので、私が世の光であるという私の証しは真実ですと言います。彼らはこれを聞いて、「あなたの父はどこにいるのですか」と聞きます。私はこれを読んで、昔、友達を教会に誘った時、「お前が、イエスが今も生きて働いていると言うなら、イエスはどこにいるんだ。俺にも会わせてくれ、いると分かったら、俺も教会に行く」と言われたのを思い出しました。私自身も母の勧めで教会に行き始めた頃、教会の人々はイエス・キリストがいると信じているけれど、自分にはどうしても信じられませんでした。それで目をつぶって、イエス様の像を心に描いて、このイエス様が自分に話し掛けてきたら、信じられると思いながら祈っていたのも思い出しました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とのみ言葉は知っていても、主がいるかどうか分からない自分には、その主イエスを信じることはとても出来なかったのです。三ヶ月くらい真面目に教会に行き続けました。主を信じる人々に、この世の人々にはない魅力を感じたからです。でも「信じてバプテスマを受けない?」と何度か言われましたが、無理な相談なので、その度に突っぱねていました。

 主イエスは彼らにそう尋ねられて「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父も知ったでしょう」と言います。彼らはイエスを知っています。だから、色々と問い掛けているのです。でも主は「あなたがたは私について知っていると思っているが、真実の私を知らないのですよ。真の私を知らないのですから、私の父を知らないのは当然です」と突っぱねたのです。私は信じたくても信じられないまま、時には教会の人達の無言の圧力を感じながらも、二ヶ月半教会に行き続けました。とても長かったように思います。しかし1962年3月21日、突然主に語り掛けられ、闇の中ではなく、主の光に照らされて歩む者に変えられました。

 主が「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」と言いましたが、闇の中で主と語り合っていた彼らは主を真の意味で知り得なかったのです。私達も世の人達に主イエスを信じて救われて欲しいと願って語り掛けますが、思いは通じません。しかし、主は人々の無理解に直面しても止めずに語り掛け続ました。8:59に「彼らは、イエスに投げつけようと石を取った」とあります。主を殺そうと思ったのです。今日の20節でも、主と人々の対話が緊迫したものだったことが暗示されています。私達が主イエスの存在を知らせ、福音を伝えることは困難が伴います。でも私達は主は世の光と信じているのです。いのちの言葉をしっかり握り、世の光として輝く(ピリヒ2:16)者として福音を伝え続けましょう。