メッセージ(大谷孝志師)
試練は信仰成長の時
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年9月17日
ヤコブ1:1-15「試練は信仰成長の時」

 新約聖書は、福音書、使徒の働き、手紙、黙示録からなります。手紙の中には、筆者名がパウロとある13の手紙、それ以外の使徒と主の兄弟の名がある7つの手紙と著者名のないヘブル人への手紙があります。ヤコブ、ペテロ、ヨハネ、ユダの手紙は、他の手紙のように特定の教会や人に宛てたものでなく、諸教会を対象にして書かれた回状の性格を持つ手紙で「公同の手紙」と呼ばれています。ヤコブという名の人は聖書に十二使徒の一人を含め4人います。その中で、一番確実だと考えられているのは、主イエスの兄弟ヤコブです。使徒の働き12:17他とガラテヤ人への手紙 1:19他に、彼は十二使徒と共にエルサレム教会の重要な指導者の一人と記されています。この手紙の大きな特徴は2:17の「信仰も行いを伴わないなら、それだけでは死んだものです」という言葉にあります。信仰による義よりも行いによる義の方を主張している印象を与えたからです。それでルターが、ローマ人への手紙等と比べるなら、この手紙は「軽い藁の手紙」と言いました。でも今では、他の手紙と同様に、信仰と生活の基準を示す大切な聖書の一巻として認められています。

 ヤコブは冒頭の挨拶の後、先ず「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上のない喜びと思いなさい」と勧めます。と言うのは、試練に遭うと、信仰が試され、忍耐が生まれ」るからです。パウロもローマ5:2,3で、神の栄光に与る望みを喜んでいるだけでなく、苦難さえも喜んでいます。何故なら、苦難が忍耐を生み出すからですと、ヤコブと同じ事を言っています。二人は何故そう言ったのでしょう。この背後には、主の臨在と愛、聖霊の護りと導きがあるからです。私達の信仰が試されるということは、私達が主イエスを信じているからです。私達はその事を忘れてはいけないのです。私達主を信じる者は、試練に遭っても押し潰されずに、むしろその中で喜べるのです。しかし彼は、ここで大切なことを命じます。信仰が試されることによって自分の内に生まれた忍耐を完全に働かせなさいと命じるからです。そうすれば何一つ欠けたところない、成熟した、完全者となりますと言います。

 では何故続いて彼は、知恵に欠けている人がいるなら、神に求めなさい。神は与えてくれますと言うのでしょう。パウロは「忍耐が練られた品性を生み出し」と言いますが、忍耐を働かせることは、単に我慢し、試練の嵐が過ぎ去るのを待つのではありません。信仰が試されるのは、主が単に人を苦しめようとしているのでなく、その人に試練に遭う必要があるからなのです。その時、何をどうすることが必要かを知る知恵が必要になります。とは言え、試練は辛く厳しいものです。試練という字が示すように、試みは、私という人間の品性を練られたものにする為のものです。試練を信仰訓練の大切な時と受け止めましょう。私達の周囲にも試練の中で忍耐力を与えられ、主を信じているからこそ希望を失わずに生き生きと生きていると、その信仰を証している人もいます。そのような人を見ていると信仰の大切を改めて思わさせるのですが、いざ自分に降りかかってくると愚痴が口から出てしまい、主に不平不満を祈りでぶつけてしまうのが私達人間なのです。ヤコブは、主の兄弟でしたが主を信じられず、おかしくなったとの噂を聞いて、連れ戻そうとしました。彼は主の十字架の死と復活後、主の兄弟である自分が大きな間違いをしたことに気付き、混乱したでしょう。しかしそれを自分が変わる為の試練として受け止め、忍耐し、練達し、使徒達と共に心を一つにして祈る者に変えられ、誕生した教会の中で主だった一人と見られるようになりました。

 「私の兄弟たち、様々な試練に会う時はいつでも、この上ない喜びと思いなさい」というヤコブの言葉は、彼自身経験したこと、自分と共にエルサレム教会で中心的働きをしている使徒達の経験に裏付けられた言葉なのです。エルサレム教会は、各地に誕生した諸教会の信仰的指導教会であり、人々の信仰と生活の基準を示す立場にありました。この手紙も、諸教会の人々の生活に密着した信仰の確立と成長の為に御霊に導かれて書かれた手紙なのです。

 彼はこの手紙を「離散している十二部族」に送っています。それは広くローマ世界に散在しているキリスト者です。「あなたがたも知っているとおり」とあるように、ステパノの殉教以後に起きた迫害で各地に散った全てのキリスト者で、彼ら自身もローマの地方総督達から、迫害を受けていたのです。

 今の日本はキリスト者と言うだけで激しい迫害を受けることはありません。憲法で信教の中が認められているからです。しかしこの世では、教会に行くことを、キリスト者になることを反対され、止めさせられることもあります。以前、キリスト教主義の大学を受験する教会員の為に牧師として推薦状を書いたのですが二年続けて合格せず、教会を去った青年、部会のキャンプで信仰を与えられたが、親にバプテスマを受けたいと言ったら、墓はどうするのか、信者になったら、墓に入れないと親に言われ、教会に来なくなった青年もいました。その他にも様々な困難や問題意識で教会を離れた人もいます。

 でもこれ迄の諸教会で多くの方が救われ、牧師になり、教会の役員を長く務めた方々もいます。キリスト者になり、キリスト者であり続けることは、人の力によらないのです。神の力が与えられたからです。ヤコブは「少しも疑わず、信じて求めなさい」と言いますが、すっと受浸た人もいれば、疑いばかりが生じ、数年かかった人、私が辞めてから受浸した人もいて様々です。彼が「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」と言うのは、その人の弱さを言っているのではありません。「その人は、主から何かを戴けると思って」いるとありますからキリスト者です。試練で信仰が試され、忍耐が生まれる為には、信仰が試されていると自覚することが大切なのです。試練の中で信じ抜く努力が求められるのです。その信じ抜く努力の中で忍耐が生まれるのです。「忍耐を働かせる」とは、受け身でじっと忍び耐えるのではありません。ヘブル11:1にあるように「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」なのです。主を信じている時、自分は主と共にいる、自分の為に、災いではなく平安を、将来と希望与える為に、既に計画が立てられていると信じれば良いのです。前を向いて、自分に必要なものが与えられる、その将来に向かう道を、忍耐して歩んで行きましょう。

 ペテロは強風に荒れ狂う湖の上を主が歩いて来るのを見て、「主よ、あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせて下さい」と言い、主に許されて水の上を歩いていたが、強風を見、主から目を離し、沈み掛けました。8節の「二心を抱く者」は、主も大事自分も大事と二つの思いの間で心が揺れ動く人です。人は誰も自分が大事です。試練の中で自分大事が優先し、神から目が離れてはいけないのです。彼は自分が滅びに向かっているのが分からないまま、滅ぼされてしまうことが、草花を例に忠告されています。苦しくても試練は耐えなければならず、しかもどうすべきを判断しなければなりません。でも主がその人愛し、試みているのです。試練は、主が人の信仰を成長させようとしている恵みの時なのです。ですから彼は「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるから」と言います。試練を信仰成長の時にしましょう。