メッセージ(大谷孝志師)
信仰によって生きよう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年9月17日
ヘブル11:1-3「信仰によって生きよう」 牧師 大谷 孝志

 聖書は私達に目に見えない世界について教えている。目を瞑って歩いてみよう。すぐに怖くて歩けなくなると思う。しかし<目の見えない人は蛇の傍を怖がらずに歩く>という諺もある。人は見えないから安心していられる面があるのは確か。

 昔、死ぬ日を知らされた人の生き様を描いたテレビドラマを見た。その人は死への恐怖と死の束縛から解放された自由の間で、異常に心が揺れ動いていた。人はいつか必ず死ぬ。しかし、いつか分からないからこそ、今を安心して生きているのでは。

 聖書は、肉体の死の他に永遠の死があると教える。人は、主イエス・キリストを信じれば、救われ永遠の命を与えられる。そして、全ての人は終わりの日に主に裁かれる。主を信じて世の命を終えた人は、命の書に名を記され、霊の体に変えられ、永遠に主と共に生きる者となる。しかし、主を信じない人、信じないまま死んだ人は、永遠の火に投げ込まれ、滅ぼされると聖書は教える。しかし世の人々はその火がまだ見えない、まだ世の終わりの日が来ていないので、のんびりと生きている。逆に主を信じている人も、先の事が分からないのに加え、この世に生きている間に、主に喜ばれない事をしている自分を知っているので、 こんな自分も救われるのだろうかと、やはり、不安になることも。主イエスを信じていても、人として世に生きている限り、主を信じていない人と同じ弱さを引きずっている。しかし、信じるのギリシア語はピスティス。これは信頼する、任せる,委ねる等の意味持つ。日本で言う<鰯の頭も信心から>という信仰ではない。あるかないか分からないけれど、あると思うとか、思い込むとかではなく、主は私達と別人格で、自分の意思を持ち、私達の思う通りにならないと分かっているが、相手である主を信頼し、主に自分を任せ、委ねること。これが聖書が教える信仰。

 1節に「信仰とは望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」とある。パウロもUコリント4:18で「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」と言う。同じ5:7でも「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言う。人は先の事は分からない。想像したり、期待するしかない。そして相手に失望したり、裏切られて苛々したりする。しかし、主イエスを信じるなら、主は私達と共にいて、マタイ9:2で中風の人に、9:22で十二年間長血を患い苦しんでいた女性に「しっかりしなさい。安心しなさい」と言って、二人の病を癒し、新しくその人生を出発させたように、安心して目的、目標に向かわせ、到達させてくれる、こお主を信じることが聖書が私達に教える信仰。主を信じ、救われているから、明日も生きられると信じて安心して眠れる。三度の食事が用意出来る,或いは用意して貰えると信じるから、今日も一日感謝ですと思い、目覚め、日々を過ごせる。信じることは心の中だけや言葉だけの事柄ではない。生き方に密接に繋がっている。主イエスを信じていると言う時、私達は主を身近に感じている。見えないし、声も聞こえないが、主を信じているので、主よと呼び掛けて祈れる。信じるので、傍にいて私達の祈りを聞いていると信じて祈れる。

 主の姿も私達の将来も目に見えない。しかし主イエスは共にいるし、私達に将来と希望を与える計画を、既に主は私達の為に立てている(エレミヤ29:11)。私達は、見えない、分からないからと不安になる必要はない。主は私達を愛し、私達に必要な時に、私達に必要なものを与える。主を信じて生活すれば良い。私達がそう信じ、そう生きることを主は何よりも喜ぶ。信仰によって生きる者となろう。