メッセージ(大谷孝志師)
神の御手により生きる私達
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年9月24日
伝道者2:1-26「神の御手により生きる私達」

 人は誰も,快い楽しい生活に憧れるのではないでしょうか。福音書を読むと、辛く苦しく,人に蔑まれ、物乞いをしなければない人、社会から弾き出され、或いは爪弾きにされている人々が、主に癒され,仲間として受け入れられ、喜んで主に従って生きる姿を見ることができ、主が共に生きる世界の素晴らしさを私達は知らされます。今はその時から二千年が経っています。

 ペンテコステの日に最初の教会が誕生して以来、この主イエスが共に生きる世界、主が支配する世界に生きる素晴らしさを知らせ、その世界に全ての人が招かれていると伝える福音宣教の働きを、多くの人々が労苦を重ねながら今も続けています。私達の教会も一端を担っています。しかし、今も戦争の最中で、不安と恐怖にさいなまれている多くの人々がいます。長引く戦争や内乱もですが、先日のトルコやリビアの大災害でも多くの方々が命を失っただけでなく、生活環境も一変しています。日本でも、物価高や生活条件の変化で、生活が困窮している多くの人々がいる切実な現実があります。しかし私達は、主は今もこの世界を護り導き、万物の主として全ての人が平安な生活が出来るように、あらゆる人々を用いて働き続ける方と信じています。

 しかし人が幾ら努力をし、目的を達成しようと思っても、このコヘレトのように空しさを感じてしまう人が多いのでは無いでしょうか。しかしその現実と共に、彼のように知恵と知識を用いて自分達に出来る事を模索し、困難な状況にいる人々を助けている人、幸せをその人々と分かち合っている人々がいるのも現実です。十人十色と言いますが、人様々、する事しない事、出来る事出来ない事は、その人によって違います。不幸になるより幸福の方が良い。辛く苦しい生活より嬉しくて楽な生活、無くて不安な生活よりも必要なものがあり、この先を安心出来る生活の方が良いと思うのは当然なのです。

 彼はこの世の様々な事柄を見て、何が真実で人に意義ある人生をもたらすのかを真剣に考えたのでしょう。彼は自分に「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい」と言います。贅沢な話ですが、この後を読めば分かりますが、莫大な富と権力を持つ彼だから出来たことだと言えます。しかし彼はそれが空しいと知っていました。それが自分でも笑いたくなるような馬鹿げた事であり、狂気としか言いようのない事と分かってはいました。そんな快楽を味わってみても、何の役にも立たないとも知っていたのです。

 しかし彼は、それが愚かなことと分かっていても、自分の探求心を押さえきれず、全ては空しいとしか感じられなくても、行動に移して行ったのです。彼は贅沢の限りを尽くし、自分の財力と権力がいかに絶大なものであるかが誰の目にも明らかになるようにした事が、4-8節に列記されています。そして、自分より前にいた誰よりも偉大な者となった言います。でも尊大、傲慢になりませんでした。豊かな知恵が失われないように気を付けたのでしょう。自分の知恵を自分の内に留まらせていたからです。ですから、彼は自分の目の欲するままに何ものも拒まず、心の赴くままにあらゆることを楽しむことが出来ました。人や時間が相手となることですから、労苦は避けられません。でも彼はどんな労苦も楽しんだと言います。苦労を苦労と感じない人生なんです。なんと素晴らしいものだったんだろうと私はこれを読んで思いました。しかし、自分がした全ての事とその為に骨折った労苦を振り返って見ると、全ては空しく、風を追うようなものだったと彼は言います。彼はこの後、これから起きる様々な事柄を述べ、そこから一つの結論を導き出していきます。

 確かに彼は並外れた知者でした。しかし自分が知恵を尽くして苦労して行った結果を、跡を継いだ者が何の知恵も働かせず、労苦もしないのに、知恵と力を持つ者と周囲の人達に見てもらえる。自分がした事も後を継いだも伸した事も同じように人々の記憶に残らない。知恵ある者も愚かな者も同じ様な一生を終えて同じように死ぬのなら、自分の人生は全くの無意味なものでしかないと知り、彼はすべては空しく、風を追うようなものだと言います。

 また、人は一人で生きているのではありません。誰かが自分の為に、自分が誰かの為に、何かをしながら生きています。例えば、親が子の為に懸命に、全てを捧げる思いでしても、子が当然の事と受け止め、ただ受け取るだけの場合もあります。子だけでなく、周囲の人も同様だったりします。また、自分が労苦した行為を受け継いだ人達が、自分達の知恵と力で行っていると振る舞うのを見ると、自分が骨を折った一切の労苦が全く意味のないものと思い、彼は絶望するしかなかったようです。しかし、彼の18-22節の言葉を読むと、彼が非常に自己中心的発想の持ち主であると分かります。自分の労苦は他の人に受け継がれることによって社会は順調に推移していくものです。この教会も様々な教師、信徒によって活動がなされ、教会として存在し続けています。それぞれの時代にそれぞれの人々が骨を折り、労苦を積み重ねて来た事は言うまでもありません。良い事として心に残っている事もあれば、忘れたいと思いながらも教訓として心に刻んでいる事もあると思います。この歴史を受け継いでいる今の私達にとって、全ては意味有ることだと思います。

 しかし、彼は自分の功績は他の人がどう受け継ごうとも、自分の功績が無視され、忘れ去られていると感じられる出来事があったら、到底赦せないことなのです。自分の業績を無視する事は自分自身が無視されているの同じだからです。また自分の功績は、自分が知恵と知識と才能をもって自分が労苦した結果なのに、何の労苦もしないで人が、その功績を自分のものとして受け取り、周囲の人もそれを認めるとしたら、空しいどころか、悪いことでしかないと彼は嘆いているのです。彼は「人にとって」と一般論のような言い方をしますが、完全に彼の愚痴、不平不満なのです。彼はそれに気付いてません。その結果、彼は「一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も安まらない。これもまた空しい」としか言えなかったのです。

 彼は1:13で、自分が自分の知恵で真理を捜し出そうとしたが出来ず、その結果、この探求は神が与えた辛い仕事だと認めざるを得ませんでした。それでも、その自分に負けずに、知恵と知識と、狂気と愚かさを知ろうとしたのですが、悩みと苛立ちが増すばかりでした。そこで、彼は快楽にのめり込もうとしたり、酒に溺れようとしたのですが駄目でした。そこで、彼は馬鹿げた事と分かりながら、何が良いかを知る為に、様々な構造物を造り、多くの財産を手に入れたのですが、それもまた、空しいものでしかなかったのです。しかし、彼は最も大切な事に気付きます。全ては神の御手によるものだと分かったのです。彼は自分に分からない事を分かろう探求し、労苦し、思い煩ったのですが、全ては空しかったのです。しかし彼が自分の日常生活を素直に見 つめ直した時、自分の労苦を良い事として受け入れ、満足すれば良いと気付いたのです。神はそうするように人を生かしていると分かったからです。

 神は私達に知恵と知識と喜びを与え、日常生活の中に満足するものを見出させようとしています。私達は、神に日用の糧を与えられ、養われているから、日々生きることができ、その中で自分の労苦に満足を見出す喜びを与えられています。私達は皆、神の御手により生かされているのです。感謝です!