メッセージ(大谷孝志師)
主の求めに応えよう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年9月24日
ルカ6:27-36「主の求めに応えよう」 牧師 大谷 孝志

 主イエスはここで,徹底的に与えよと教えている。この教えは、当時でもかなりユニークだったと思う。「求める者には、だれにでも与えなさい」と主が言うからと自分のものを与えていたら、自分のものは何もないというところまで行ってしまう可能性が有るから。それに、敵を愛しなさい、悪口を言っている人、自分を侮辱する人の為に祝福を祈りなさい、と言われて「はい」と言えるだろうか。伝記などを読んでそんな人の存在を知ったり、ドラマを見て感動することはあっても、現実には自分には無理だと思ってしまう。愛せない人だから敵だし、自分を憎んでいる人を憎らしいとは思っても、親切にして上げたいとは思わないのが人間。しかし、そこに様々な亀裂が生じ、人間関係がうまくいかなくなったり、壊れることも。それは決して善いことではないと分かっていても、どうにもならない弱さを人は持っている。その弱さを知るから、主は徹底的に相手受け入れよと教える。そこに人が真に平和に共に安心して生きられる道があり、その道を歩めと言う。

 主は私達に、世の人々が常識的と考える生き方から脱却するよう求めている。世の人々が当たり前と思う事を当たり前にしていては主は喜ばない。悲しい人は悲しいまま、辛い人は辛いままだから。主は私達が一味違った人になる事によって、新しい事が起きのを望んでいる。人が幸せになるには人が労することが必要。しかし、悲しい人が喜び、苦しんでいる人が楽しそうに笑う世界、その実現の為には、かなりのエネルギーが必要に。今までの自分では考えられない事をするには、それ相応のエネルギーが必要に。踏ん張るというか、思い切ることが必要に。

 主はその為には、私達に自分を捨てることを求めている。そんなのは嫌だ、自分は自分のままでいたいと思うかもしれない。変化というか、未知の領域に踏み込むことに人は恐怖を感じてしまう。人は不思議なことに深さ30pの水でもパニック状態になって溺れることがある。昔の人が「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」と言ったように、流れに身を任せてみると、意外に自分の置かれている状況を冷静に判断出来るもの。人と対立してしまうと自分の立場を護ろうと自分の考えを懸命に主張し、相手の主張を切り捨ていることが多い。自分に必要なものだけを考え、相手に必要なものを考えようとせず、無視していることが多いからではないか。

 自分を愛する人を愛し、良い事をして貰った人、それを期待出来る人を愛するのは自分の為になるからであり、見返りを期待出来ない人に善い事をしたら、自分だけが犠牲を払うことになり、損だと思ってしまうのが普通。しかし、主は「あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやりなさい。返して貰うことを考えずに貸しなさい。」と言う。そこから自分と相手にとっての新しい関係が始まり、新しい事、新しい相手の面を発見出来る恵みの時が始まるから、と教える。

 そして主は「そうすればあなたがたの受ける報いは多く、あなたがたはいと高き方の子どもとなる」と言う。私達が神に喜ばれ、神が求める事を行うなら、神の子どもとなると主は言う。私達が敵を愛し、憎む者達に善を行い、見返りを期待せずに行う「無償の愛」は、十字架と復活の主が私達に与えた無償の愛。主はマタイ10:8で「あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言う。主が私にしたように、助けを求める人に手を差し伸べ、愛を必要としている人が、して貰いたいと望む通りに、その人にしよう。主がしなさいと言うから。主は私を含め、全ての人が自分は幸いと感じられる世界になるのを望んでいるのだから。