メッセージ(大谷孝志師)
神により生まれた者に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年10月1日
ヨハネ1:6-13「神により生まれた者に」

 私は1946年2月21日に、東京都足立区千住4丁目の四軒続きの長屋に住む大谷藤吉、シズカの次男として生まれました。長男の征男は私が生まれる数ヶ月前に、敗戦直後の物資不足の中、栄養失調で亡くなっていました。父は満州に出征していましたが、病気療養の為帰国し、出生前に勤務していた電電公社、今のNTTに復帰し、私は生まれました。両親は懸命に私を育ててくれました。人は両親から生まれ、そして死んでいきます。しかし聖書は、それとは違う神が与え育む新しい生き方が人にはあると教えているのです。

 さて今日の聖書には、神から遣わされたヨハネについて記されています。この福音書を書いたヨハネと別人なので、私達は「バプテスマのヨハネ」と呼んでいます。彼は主イエスが生まれる一年半程前に、祭司ザカリヤに御使いが現れ、子供の誕生とその子が主に先立って歩む者になると知らせました。預言通り、彼と妻エリサベツの子として生まれたヨハネは、主が神の国の福音を宣べ伝え始める前から「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝え(ルカ3:3)」、主の道備えをしたのです。彼は「光について証をするためであり、彼によってすべての人が信じるため」に来ました。「信じる」とは誰を、どんな方と信じるのでしょうか。1:49で、主に「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」と言われたナタナエルは、主イエスが全てを見抜いている方と知り「あなたは神の子です。」と答えました。2:11には「弟子たちはイエスを信じた」とあります。彼らは、イエスが普通の水を良い葡萄酒に変えたことで現した栄光を見て、イエスを信じました。主の栄光を見て、どんな方と信じたかは書かれていませんが、1章でヨハネが伝えているように、主を信じるとは、主が「世の罪を取り除く神の小羊(1:29)」である「神の子(1:34)」であると信じることだということです。

 バプテスマのヨハネは、主イエスより先に神から遣わされ、素晴らしい働きをしました。しかし、彼は光ではなく、光について証する為に来たのです。私達は「自分は神から遣わされてはいない」と考えてはいないでしょうか。確かに世の人々に対して、ヨハネのように言えないのが私達の現実でしょう。彼のように「悔い改めてバプテスマを受け、神に罪を赦して頂きなさい。」「主イエスは世の罪を取り除く神の小羊、神の子です。主イエスを信じて救われましょう」と伝えなければとは思っても、自分は人にそう言えるだけの信仰を持っているか、この世でキリスト者に相応しい教会生活をして、主イエスを証しているだろうかと考え、躊躇してしまうのが私達ではないでしょうか。

 神はそのような私達をご存じです。ですから、ヨハネについて「彼は光ではなく、光について証しをする為に来た」と記させているのです。私達はその御言葉に目を留めましょう。自分が光を発して輝かなくて良いのです。主イエスがどんな方かを伝えればよいのです。逆に、自分の弱さ、惨めさは、主を証しする為の良い材料なのだと考えればよいのです。月は岩と砂の乾き切った無味乾燥の世界です。しかし夜、地球からは見えない太陽の光を受けて、その光を反射し、月明かりとして地球の夜の世界を照らしているのです。世の人々はイエスが主であり、真の光であることを知りません。ですから私達が、主イエスの光の反射板になればよいのです。主が私達が語る言葉、世の人々への思いを用いて、見えない光で相手を照らしてくれます。主が、私達の存在を通して、ご自身の存在を知らせるので、いつか分かる時が来ます。

 とは言え、聖書に書かれたバプテスマのヨハネを見て、こんな事はできないと私達は思ってしまいます。誰でも、同じ事をしたくても出来ないのです。神が彼に知恵と力を与え、彼にさせているに過ぎないのです。ですから「私のような人間でも、こんなに明るく元気に生きられます」と、主が私に与えた恵みと平安を話して伝えれば良いのです。自分の良さを示して主を信じる良さを伝えようとしないで、ただ、素直に主の良さを伝えればよいのです。

 1:9、10aの聖句は、主イエスが真の光で、世に来た当時から今に至る迄、全ての人を常に照らしていることを意味しています。主は目には見えません。でも真の光として、世を照らしています。「世」という言葉は、この世界や全被造物と言うより「私達を含めた全ての人々」と受け取りましょう。主イエスが人として世に来たのも、バプテスマのヨハネが神から世に遣わされたのも、全ての人が救われる為なのです。今は主イエスを信じ、信徒となった人も、かつては「主イエスはあなたの救い主なのです」と教会の人に言われても直ぐには信じられなかった筈です。自分も主を信じた人達と同じ様に真の光に照らされているのです。でも、それは霊的光なので、認められなかったので、イエスを救い主としても、神としても信じて受け入れなかったのです。

 何度も言いましたが、私自身も決して認めませんでした。分からなかったからです。主を信じる前は、死を恐れ、親友と思っていた友人に裏切られ、孤独を感じ、人生は薄ぼんやりとしたものでしかありませんでした。その私を真の光である主が照らしてはいたのですが、全く分からなかったのです。そんな私が主イエスを信じ、牧師をしているのは、教会に来て、教会の人達に触れたからです。その一人一人に内からでる輝きを感じ取ったからです。勿論、長所も有れば欠点もありました。でも、主イエスを信じている喜び、私に救われて欲しいとの願いに溢れているのが感じられたのです。そのような喜びと願いに溢れていることが、教会にとってとても大切なことなのです。

 12節に「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には」と有ります。主イエスを受け入れ、信じたのは、自分自身の決断だったのです。しかし後になって、主が救い主と自分が思い込んだだけではないかと思うことがあります。他人に言われたからではなく。自分で決めた筈ですが、自分の心の中で起きた事なので、疑念が生じてくるとどうしても消すことができないのです。それは悪魔の誘惑です。悪魔は救われた人を神から引き離し、自分の領域に引きずり込みたいのです。それに気付き、真剣に神に祈り、自分を見つめ直しましょう。殆どの場合、信じたかった自分が信じられたことを喜んだ自分に気付きます。すると更に、神からの働き掛けがあったことに気付きます。そして、自分の人生が既に大きく変わっていることに気付きます。信じる前と信じた後では世界が変わっているのです。世界自体に変化はないのですが、自分の世界観が変わっているのです。自分には関係ないと思っていた主イエスが、自分の人生にとって何よりも大切な方だと思えるようになっています。価値観が変わってるのです。これこそが神によって生まれることなのです。

 主は今も真の光として、信徒も信徒でない人も照らしています。しかし、信徒である私達もそれが分からなくなる時があります。もし分からなくなったら誰でも、周囲の信徒を素直に見つめて見ましょう。主が真の光としてその人を照らしているので、その光の反映を感じることができます。その自分が真の光に照らされているのを知り、主を信じる喜びに満たされましょう。これからの人生もその喜びに満たされるよう願って生きましょう。