メッセージ(大谷孝志師)
現状の意味を知らせる主
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年10月8日
ヨハネ9:1-17「現状の意味を知らせる主」

 先月は姦淫の女性の話の続きでしたが、今月は、「シロアムの池」という場所が出てくるので、主イエスの一行がこの池が有るエルサレムの町中を歩いていた時の出来事と考えられています。主が通りすがりに、生まれた時から目の見えない人をご覧になり、その目を見えるようにしました。福音書には主イエスによる開眼の奇跡が多く記されています。しかし旧約聖書には盲人開眼の奇跡は記されていません。でも、そのイザヤ書35:5他に、盲人の開眼が、来たるべきメシアの業であると記されています。ヨハネが20:31で「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであると信じるためであり」と記しているように、主イエスがメシア、訳せばキリストであることを明らかにする為にヨハネがここに記しているのです。8章の最後で、ユダヤ人達は自分がアブラハムが生まれる前から、天地が創造される前からいると言ったイエスに、神を冒涜したとして石を投げつけて殺そうとしました。しかし、その主イエスこそが全ての人を救うメシアとヨハネは教えるのです。

 主がこの盲人を見ると、弟子達が「先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」と主に尋ねました。ユダヤ人は聖書には書いてない事なのに、肉体が盲目等の健常で無い状態になるのは、罪の報いと伝統的に考えていたからです。その典型的例が、ヨブの友人達の言葉に表れています。主は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と彼らの考えをはっきりと否定します。私は妻を二度癌で亡くしています。最初はそうでも無かったのですが、二度目の時は、自分が神にこの裁きを下されることを何かしたのだと人々が考えているのを感じさせられた記憶があります。病気や死の原因を関係する人に求めてしまうのが、人が持つ弱さなのかもしれません。

 私は先月突然の下血で貧血を起こし、ER救急救命室に入院しましたが、主は祈りに応えて癒し、牧師として、夫、父としての働きを続けさせて下さいました。教会の病気の方や病気のご家族の為に祈り続けていますが、これ迄も目に見える癒しを私が経験出来ないでいるのは事実です。それなのに、何故私が癒されたのかは分かりません。二年前の大腸憩室出血がすぐに収まったように、或る時間が経てば治るものだったのかもしれません。でも私は、神の業が現れる為の下血だったこと、主が必要とされた事と信じています。

 と言うのは、私達人間にとって、主が共にいること、主が全ての人の救い主、キリストであることを信じるのは、簡単なようでとても難しいからです。信じていても、疑いたくなるような現実に直面すると、疑念が湧いてしまうのです。そしてその原因を神にではなく、人に求めてしまうのです。しかし、それがサタンの思う壺だということを、聖書は私達に繰り返し教えています。

 主は、私達は私を遣わされた方の業を、昼の内に行わなければなりません。誰も働くことができない夜が来ます。私が世にいる間は、私が世の光です。と言って、この生まれた時から目の見えない人の目を見えるようにします。聖書は「主が、救い主、キリストであると信じなさい」と教えているのです。マルコ10:27で主は「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです」と言いました。これが私達の人生の拠り所なのです。最初に言ったように、この事を信じる者とする為に聖書は書かれています。「私は世の光。私が共にいると信じなさい。私は信仰と希望と愛をあなたに与える者です」と主が私達に掛り掛けていると気付きましょう。

 さて、癒やされた人を見た人々は大いに驚き、どうして目が開いたのかと尋ねます。彼らは、イエスという人が目が見えるようにしたのが安息日だと確認すると、その人をパリサイ人達の所に連れて行きました。と言うのは、泥を作り、それを目に塗り、その目を洗うことで、見えなかった目を見えるように安息日にしたのは、人命の救助等の緊急を要する行為以外の事を禁ずる律法に違反したことになるからです。パリサイ人達も彼に尋ね、イエスが律法が禁じている行為をしたと確認すると、彼らの中に混乱が生じました。

 と言うのは、彼らは聖書の専門家なので、盲人開眼をした方は、神が遣わしたメシアであることを知っていたからです。でも、それをしたとしても、律法を守らない人を神が遣わす筈はないと言う人々と律法を守らない罪人なら、何故このようなしるしを行えたのか、御心が行われたのが確かなので、イエスは神に遣わされた方だと言う人達の間に分裂が生じたからです。ユダヤ人にとって、生まれた時から目の見えない人の目が見えるようになったという事実は、聖書に預言されているメシア、キリストが現れたことを意味し、驚くべき神の救済の出来事が始まったことを意味する重大事だったからです。
 しかし、彼らは平然と安息日を破るイエスを、ユダヤ社会を破壊する危険思想の持ち主として迫害し始めていました(5:16)。7:1には「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」とあり、8:59には「石を投げつけようと石を取った」のです。9:22にも「すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。」とあります。ですから彼らは、イエスがキリストではなく罪人であると、彼に認めさせようと必死です。そうしないと彼らがイエスを排斥すべきとする自分達の主張が根底から崩れてしまうからです。しかし、彼は堂々と彼らに反論し続けます。

 この箇所を読み、私は祈祷会で学んでいる宣教に遣わす時の主イエスの弟子達への言葉を思い起こしました。「あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。」と主は言いました。この人は正に、ユダヤ人達に主イエスを証しているのです。彼のこの姿に、迫害を受けた多くの人々が、勇気と確信を与えられたと私は思いました。彼は自分の目が開けられた事実と目を開けた主イエスのことを躊躇することなく的確に証しています。彼はこう語り続ける自分が会堂から、つまりユダヤ社会から追放されることを承知していた筈です。しかし、何ものも恐れることなく彼は語り続けています。彼は盲目で道端に座って物乞いをしていた人です。このように語るだけの宗教的教育訓練を十分に受けていたとは考えられません。正に「何をどう話そうかと心配しなくてよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです」との主の御言が確かであると、迫害の最中に有る人々は実感し、勇気を与えられていたと思います。彼らも迫害者が何と言おうと、主イエスが神の子、キリストでなかったら、このような自分にはなれなかったと胸を張って主を証したのだと思います。

 彼はユダヤ人達に外に追い出されました。迫害を受け、社会から追放された人々と同じです。しかし、主は彼を見つけ出し、彼に「あなたは人の子を信じますか」と問い掛けます。彼は「主よ、私が信じることができるように教えてください」と言うと、主は「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です」と言い、彼は「主よ、信じます」と言ってイエスを礼拝しました。私達は主が共にいることが分からなくなる時があったら、自分の信仰生活を素直に顧みましょう。与えられた恵みを数えて心に刻み直しましょう。「あなたの前に私はいつもいるよ」と心に響く御声に気付けます。