メッセージ(大谷孝志師)
み言葉を行う人に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年10月15日
ヤコブ1:16-27「み言葉を行う人に」

 ヤコブは突然「私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」と言います。何をどう思い違いをしていると言うのでしょう。一つは誘惑に陥り、罪を犯した時に、神に誘惑されたと自己弁護をし、神のせいにしてしまうことです。人には、自分を良く見せたい衝動に駆られる弱さがあるからです。また、人は自分は完全ではないことを逆手にとり、自分の感情のままにしてしまっても仕方がないと思い、何事も起きなければ自分は悪くないと思い、安心していることです。神を信じ、礼拝しているの、そんな自分を神は赦して下さっていると思うなら、それはとんでもない間違いですと彼は教えます。

 ヤコブは「すべての良い贈り物はまたすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです」と言います。彼は、神が世界の全ての創造者として、この世に御心に従い、全ての人に必要な全てを与えていると教えます。私達も互いに相手に必要と思うものを、必要と思う時に与え合います。しかし、実は相手の思い込みによるもので、本当は不必要なもの、邪魔なものの場合もあります。しかし、天の父、主イエス・キリストを信じているなら、それらのものを、自分の判断で受け取るかどうかを決めずに、全てを主が与えた良いもの、今必要なものとして戴けば良いと彼は教えるのです。ヨブ2:10の「『私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けるべきではないか。』ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。」とあるヨブの信仰に通じるものが有ります。

 主イエスは「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい(マルコ8:34)」と命じました。私達が主イエスを信じるとは、この主に従うことであり、この主の命令通りにこの世に生きることです。しかし私達はUペテロ3:16で、彼がパウロの手紙ついて「パウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます」と言うように、聖書の言葉を自分勝手に、自分に都合の良いように解釈してしまうことがあります。ではどうしたら良いのでしょう。

 その為にはUテモテ3:16の「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と正義の訓練のために有益です。」とのみ言葉の前に自分を立たせ、今のこのような自分が「すべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるために」聖書の言葉が与えられているとの思いで読むことが大切なのです。すると私達も、22節でヤコブが言うように、自分を欺いて、ただ聞くだけの者にならず、み言葉を行う人になれるからです。 そんな事を言われても自分にはできないとは思わないで下さい。確かに聖書を読み、御霊の助け導きを求めても、思う通り、願う通りの信仰生活を送れない自分に無力さを感じ、祈っても無意味と思ってしまう時があります。私達は気付かない内にこの世の垢に染まっているのです。その時、悪の誘惑に遭っているのです。

 私達は教会を、聖書を、福音を知り、主イエスを信じて救われ、神の子となっているのです。「父が私たちを、いわば被造物の初穂とするために、みこころのままに真理のことばをもって生んで(18)」下さったのです。私達は「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます(Uテモテ3:15)。」と知っています。諦めずに、もう一度初心に立ち返って、主のみ言葉である聖書に正面から向き合いましょう。

 しかし、聖書を読み、礼拝で牧師の話を聞き、兄弟姉妹の証しを聞いても、心に響かずに、そうなのかと思うだけで終わったしまう時はないでしょうか。私達は救われても、心の底には汚れや悪が潜んでいるのです。そんな時は、私達を神から引き離す機会を狙っている悪に隙を与えていると気付きましょう。そのままだと、自分さえ良ければとの思い、他人の事は他人の事、先の事は誰にも分からない等の思いを利用され、神から引き離されてしまいます。

 ヤコブは「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り」なさいと言います。聖書のみ言葉にしっかり向き合う為にはこれが必要なのです。私達が聖書を読み、説教を聴き、証しを聞いているその時、主が私達の心にみ言葉を植え付けているのです。主を信じる私達が互いに信じ合い、愛し合い、同じ希望を持って共に生きる為には、み言葉が私達一人一人の心の内に留まっていることが必要だからです。み言葉は私達がどう感じようと、心の中に根を下ろしているのです。私達が信じる私達の主はそのような恵みに満ちた方なのです。主は、私達一人一人を無条件に愛しています。私達は愛されているのです。その主の愛に応えましょう。でも、どのように応えたらよいのでしょうか。

 ヤコブは「み言葉を素直に受け入れなさい」と言います。み言葉を素直に受け入れるとはどういうことでしょう。人間関係に移し替えて考えてみましょう。相手を素直に受け入れること自体、結構難しいものです。そして相手を受け入れると、様々な面で自分の生活に影響が出てきます。相手の希望に合わせたり、要望に応える為に自分を犠牲にしなければならない時もあります。自分と相手の人生が重なるからです。良い所を見つけて良かったと思い、悪い面を見つけてがっかりしても、大切な相手として受け入れたので共に生き続けます。同様に、御言葉を素直に受け入れることは、それが自分にとって良くても悪くても、先ずは御言葉と共に生き続けることを意味するのです。

 「みことば」の原語はロゴスです。 ヨハネ福音書の「ことば」も同じです。「みことば」は主イエスが語った言葉であり、その言葉自体が、主の御心、御旨です。ですから、み言葉を素直に受け入れるなら救われるとヤコブが言うのは真実です。しかし、み言葉は私達に受け入れることを求めると共に、行うことも求めます。み言葉は聖書に書かれています。しかし、それをただ日本語として読んでいては、私達は変われません。自分の内に何も起きないからです。み言葉を、私に語り掛けられている主の言葉として聞くことが必要なのです。主は私達を変える為に、世の人々を救う為の働き人、主の証人とする為に私達に語り掛けているのです。「だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んで(Uペテロ3:9)」いる主イエスの愛の御言葉なのです。私達はみ言葉を行い、私達に福音を伝えて来たその人々の働きによって、救われたのです。その人達が、主の愛の語り掛けに応えて、み言葉をただ聞くだけの者ではなく、み言葉を行う人になり、自分を欺いて、ただ聞くだけの者にならなかったからです。

 12節のこのみ言葉は命令ではありません。主を信じている者が、幸いな人となり、主の祝福を受けて生きる人でいる為のみ言葉なのです。彼は、み言葉を聞く人を鏡を見る人に例えました。ただ眺めているだけの人は、鏡の前から離れると直ぐに忘れてしまいます。しかし、み言葉の大切さを知り、主の証人としての自分へのみ言葉として聞き、それを受け入れた人は、自分に真の自由を与えた福音に生きる人になるのです。でうすから鏡というみ言葉を一心に見つめましょう。み言葉が自分の内に生き生きと働き、み言葉を実際に行う人、行わずにはいられない人になります。私達はその行いによって主に祝福されます。み言葉を行う人になりましょう。