メッセージ(大谷孝志師)
全ての事には時が有るから
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年10月22日
伝道者3:1-22「全ての事には時が有るから」

 この書の著者コヘレトは、先ず「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時が有る」と言います。これに続く2-8節は、聖書の中でもよく知られたみ言葉の一つです。ここに上げられている行為の全ては、私達人間が、その時々に必要として行っていることです。しかし彼は11節で「神のなさることは、すべてその時にかって美しい」と言います。彼は全ては神がなさっていることと教えるのです。私達が自分や相手の意思で、或いは自然現象によりそれを行ったり、起きていると思ったり、或いは必然的にそうなったのだ、いや、偶然そうなったに過ぎないと思っても、全ては神が人や全ての被造物を用いて行わせているだけとコヘレトは教えているのです。

 彼は「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」と言います。そして、人がしているこの二つの時に挟まれた対称的な二つの行動を挙げていきます。そこには彼が考える人間の全活動が網羅されています。その二つの行動は、初めの事と終わりの事、肯定的な事と否定的な事、相反する感情と様々です。

 確かに人はこの世に生まれ、死んで世を去ります。植物を植えたり、収穫が終わったり、枯れたりすれば抜きます。「殺すのに時があり」とありますが、以前教誨師をしていた岡山刑務所には殺人罪で収監されている多くの人々がいました。個人教誨を受けていた人も恋愛感情のもつれで咄嗟に相手を殺してしまった人でした。また、いじめ等で自殺に追い込んだ人々も、その時、相手を殺してしまったのです。「癒すのに時がある」とありますが、医療関係者でない限り、病の人を癒した経験はあまりないでしょう。しかし、自分の言葉や関わり方によって、相手が問題や事態の考え方、捉え方が変わり、立ち直り。心が癒されることもあります。また、世の生活苦に喘ぐ人々に物資を贈ったり、子ども食堂を開いて、手を差し伸べる人々がいます。その人々も肉体的、精神的に人を癒している人と言えます。人は、殺すにしても癒すにしても、相手の人生を大きく左右する時、機会を誰もが持っているのです。また人は、必要に応じて物を建て、不要になれば破壊します。辛く悲しい思い、生きることに無意味さを感じ、落ち込み、泣く時を過ごしていても、笑える時は必ずやって来るものです。コヘレトは更に、嘆くのに時があり、踊るのに時があり、戦いの時があり、平和の時があるまでの様々な時を記し、人は様々な営みを繰り返しながら、人は生きていると記します。彼に言わせれば、人はその中で葛藤したり、後悔したり、喜んだり、楽しんだりしながら、喜怒哀楽を経験しているだけのことなのです。でも、冷ややかに、俗世界を離れた悟りきった人間として、世の中を見ているのではありません。彼はこの世に起きている事の意味を本当に知るなら、もっと楽というか心穏やかになると知り、自分が得た知識によって人々を諭そうとしているのです。何故なら、それら全ては神が御心によって人に行わせている事だからです。

 しかし、どうしても人は自分の知恵と力で何とかしたいとできる事をしようとします。そして、できないと思っても努力すればできるかもしれないと考え、労苦を覚悟で仕事をしています。しかし、それが出来ないと分かると自分にはそれをする技能が、知恵と知識が足りなかったと自分を悔やみます。それでも次は頑張ろうと思うのですが、どうしても無理と分かると激しく落ち込んでしまいます。そこで彼は「働く者は労苦して何の益があるだろうか」と言います。しかし彼は、だから働くこと、つまり人が世に生きる中でする全ての行為の中でする労苦が空しく、無意味と言っているのではありません。

 全ては空しい事だとしたら、私達がこの世に生き、行動する意味がどこにも無いことになってしまうからです。しかし、この伝道者の書を読むと、彼のものの見方は、人がする全ては神の御手によることと一貫しています。確かに、働くことには労苦が付きものです。彼は9節で「労苦して何の益を得るだろうか」と言いますが、2:24で「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない」と言いました。全ては御手によることだからなのです。自分がその労苦で何の益を得たのかと、結果云々を考えるよりは、自分が労苦出来たこと自体に満足を見出せば良いと彼は言うのです。現在でも良く言われることですが、「結果より経過が大事で、その経過の中で自分が成長しているので、それに気付けば良い」のです。それが彼が言う「自分の労苦に満足を見出すこと」だと私は思います。

 彼は10節で「私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と言います。この書を読んでいると、世の全ての事を、否定的、虚無的見ているのではと感じることがあります。実はそうではなく、肯定的的に、全てを意味有るものと見ているのです。この世の全ての事には、その事に応じた意味のある始まりがあり、終わりがあるのです。その事を理解する上で、彼の「神はまた、人の心に永遠を与えられた」という言葉が非常に重要です。神は永遠の存在ですが、世の万物には生まれ、造られた始まり、死ぬ、滅びる、壊れるという終わりがあります。しかし天地を造った神は、天地創造の前から存在し、「以前の天と地は過ぎ去り、もはや海もない(黙示録21:1)」後も神は永遠にいるのです。

 その神は、人にだけ「心に永遠を与えた」のです。神は人に、神の計画と実行という時間の中で、物事を考え、その意味と変化を考え、洞察する知恵と力を与えたのです。しかし、誰よりも知恵を自分に増し加え、私の心は多くの知恵と知識を得た(1:16)彼でさえ、神が行う御業の始まりから終わりまでを見極められなかったのです。しかし彼はその知恵と知識によって「神のなさる事は、すべて時にかなって美しい」と言えます。確かに、神が人が従事するように与えている仕事には労苦が伴います。しかし、それはその時に適った仕事として神が与えた仕事で、その労苦の中に幸せを見い出せ、心を満足させられる仕事なので、賜物として感謝して受け取ればよいと教えます。

 とは言え、人はその時々に、不必要だとしてもしなければならない事はします。全ては神の御旨なので、何かを付け加えることも取り去ることもできません。しかし、全ての事の理由、結末は過去にもあった事で、将来も同じ事が起きます。ですから。理解範囲にあることなので、意味や結末を想像して、今の時を安心していれば良いと彼は教えます。合理的に解釈し、何故かと呟く必要は人には無いのです。私達は、全ては神が必要だからした事で、全ての営みと全てのわざは、神が必要とした時にしたと信じれば良いのです。

 彼は最後に人の本質について教えます。人は全生物の中で特別な存在です。彼は、人が本質的に他の生物とは違うと考えるのは傲慢と言います。人も他の動物も同じ被造物なのです。人だけが神を礼拝し、神の祝福を受け、主イエスを信じる信仰により、永遠の命を与えられ、世の終わりに御国に入り、神と共に永遠に生きると約束されていて、人は特別な存在です。でも、全被造物も神が命を与えて世に存在しているのです。人が仲間として共に生きる務めを果たすなら、世界が調和の取れたものになります。ですから、人は人として生き、自分のする事に楽しみを見出し、それを神から受ける分として楽しめば良い、そこに人としての私達の最高の生き方があるからと教えます。