メッセージ(大谷孝志師)
人生の真の導き手に留まろう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年10月29日
ヨハネ15:1-5「人生の真の導き手に留まろう」 牧師 大谷 孝志

 私達は幼い頃から様々な人と関係を持ちながら生きてきている。その人々から多くのものを吸収して、自分のものにしながら成長してきたのでは無いだろうか。両親と兄弟姉妹といって家族、学校の先生や同級生、先輩、会社の同僚や上司等、数え上げれば切りが無い程たくさんの人との関わりの中で生きて来た。勿論、良い影響を与えた人もいれば、悪い影響を与えた人もいる。どちらにしてもそれらの人々の影響を受けて、今の自分という人格の持ち主になっている。人間ほど、乳幼児期に親の保護教育を必要とする期間の長い生物はいない。家庭や学校、会社にまた地域から切り離された自分の生活を想像してみよう。一人放り出された自分を考えるだけでぞっとしないだろうか。人は誰も、誰かとの関わり無しには、人として成長することはできない。それが人間である私達の現実だと言える。

 さて、主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です」と言う。主は何故、この譬えを弟子達に語ったのか。一つにはぶどうの木は、ユダヤではよく見られる木の一つで、これからご自分が語る教えの意味を彼らが理解し易いから。福音書を読めば分かるが、主は、生活に密着したもの、身近なものを例えにして、大切なことを教えている。つまり、ぶどうの枝が木に繋がっていなければ自分で実を結ぶことができないことは、当時の人々には誰にでも分かることだった。それに、私達が主イエスを信じ、従っていれば、恵みと平安を与えられ、豊かな人生を送ることが出来る。主とその主を信じる私達との目に見えない漠然として関係を、弟子達に教えるのにぶどうの木と枝の関係がぴったりだったから。

 だから主イエスは「枝がぶどうの木に留まっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしに留まっていなければ、実を結ぶことはできません」と言う。枝は地面に根を張り、水分、養分を吸収している木に結び付いていることにより実を結べる。切り離されてしまったら、実は結べない。「留まる」は単に関係があることを表すのではなく、相手が支配する世界に共にいることを意味する、主を信じる者と主との関係はそれ程重いことを示す。

 主は何故それ程ご自分に結び付いていることを求めるのか。それは主イエスこそが、真のぶどうの木だから。人は生きる為に様々な人の助けを必要とし、その関係の中で生きる。しかし人が助けを必要とする時、真に必要なものを、必要な時に与えるのは主イエスただ一人。孤独になり寂しい時、辛く苦しい時、人は様々な人やものに頼りたくなる。悪魔はその思いに付け込むように猫なで声で誘惑してくる。周囲には頼りたくなる様々な人やものというぶどうの木がある。しかし、本当に頼りになるぶどうの木は、真のぶどうの木である私をイエスは言う。 主イエスが真のぶどうの木だと分かったら、自分達がその枝であることの意味も考えよう。人はどうしても自分中心に物事を考えてしまう。自分一人で何でもできる訳はないと分かっはていても、自分が決め手しなければと思ってしまう。だから、自分は主イエスというぶどうの木に繋がっていなければ何もできない枝とと自覚しよう。人生の真の導き手、安心して頼れるのは主イエスだけだから。

 ペテロも言う「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下で、このみ名のほかに、私達が救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」主イエスに頼り、主の恵みを一杯戴こう。主という真のぶどうの木の枝として、人生で豊かな実を結んで、この世で生き生きと生きる者になろう。