メッセージ(大谷孝志師)
主を信じ、全てを任せ切る者に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年11月5日
ルカ8:40-42、49-56「主を信じ、全てを任せ切る者に」

 福音書には、主イエスが死者を復活させた記事が幾つも書かれています。今日の個所の会堂司ヤイロの娘の死からの復活の出来事は、マタイは名を略していますが、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書の全てにあります。

 ヤイロの十二歳の一人娘が死にかけていました。彼は、正に人生が大きく変わってしまうかもしれない事態に直面していたのです。彼はイエスのもとに来て、足許にひれ伏し、自分の家に来て頂きたいと懇願しました。自分の娘が死にかけているからです。主イエスが死者を復活させた出来事と最初に言いましたが、この時点では彼の娘はまだ死んではいません。彼は、人々の噂を聞いて、イエスと言う先生が力ある方と知り、その方になら自分の娘を癒して貰えると思って頼みに来たのです。

 福音書には主イエスによる病人の癒しも数多く記され、私を含め、主イエスを信じるは者は主がそのような力ある方と信じています。そして、主イエスは十字架に掛かって死んだけれど、復活して今も私達と共にいると信じています。今この世に生きている私達も、このヤイロのように人生の大きな転換点に立たされる時があります。私は或る人から、そのような時、主によって問題を解決され、これ迄自分が生きて来た道をまた歩き始めているとの証しを聞いたことがあります。しかし、直面している問題が解決されずに、悶々とした思いで時間だけが過ぎていく、そんな経験をしている人々の悩みを聞かされることがあるのもまた、私が経験している現実でもあります。

 この世の多くの人々が、私達キリスト者が主イエスを救い主と信じいていると知ってはいます。しかし、その人々の殆どは自分では主イエスを信じようとは思いません。日本のキリスト教人口は、長い間1%台を低迷したままです。殆どの人々が、私達が信じている主イエスに問題を解決して貰おうと、教会に来ようとしないません。これもまた、この世の紛れもない現実です。
 パウロはローマ10:14で。「信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか、聞いたことのない方をどのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」と言います。私達は、世の人々が主イエスを救い主と信じて救われる為に、主の証人として世に遣わされています。ですからその為に、家族や友人知人に教会の良さ、主を信じることの良さを伝えてはいます。私は教会に来て、教会にいた先輩のキリスト者の人達から福音を聞いて、惹かれるものを感じ、主イエスを信じました。しかし、イザヤが「主よ、私たちが聞いたことを、誰が信じたか」と言うように、周囲の人達は、私達が伝えた福音を信じようとはしません。教会のこと、主イエスのことをどんなに話しても、教会に来ようとはしません。何故でしょう。

 私達の周囲の人達が、主イエスのことを知らせても教会に来ようともしないのに、ヤイロは何故、主のもとに来てひれ伏して、娘の癒しを懇願したのでしょうか。理由は簡単です。彼は信じたからです。彼は他の人からイエスという先生はこんな方ですと聞いて、その事を信じたからなのです。

 私達は主イエスを信じています。ですから、主を礼拝し、主イエスを中心にした交わりをしています。しかし私達が主イエスの存在を知らせても人々が教会に来ないのは、主イエスを信じている事を軽く考えているからです。主イエスを信じるとは、実は大変大きな事なのです。何故なら、日本人が百人いれば九十九人はしない事を私達はしているのです。自分の人生が変わる事、自分の生き方が180度変わる事を受け入れる決断し、それを実行し、主イエスを信じたからです。

 でも、主イエスを信じた時、教会の執事夫人に「大谷君バプテスマを受けて変わった」と聞かれた時の事を思い出しました。私はそう言われて、「うん」とは言いました。でもその時は、正直言って、人生が全く新しくなった印象はなかったのです。バプテスマを受けて、礼拝堂の十字架を見上げた時、それ迄とは違って、何か心に突き刺さるような思いをしたことだけは確かです。その十字架が輝いているように見えたからです。でも、それ以上のものでは無かったです。その後も主が共にいることは信じていました。しかし信じていても、何かが足りないと感じていたことは確かです。主を信じていても、自分が一番大事との考えから抜け出せない自分にこのままでは駄目だと思っていたからです。しかし、今こうして牧師をしています。それは、私の人生が、生き方が変えられたからです。

 その時は突然来ました。出席していた柏教会の水曜夜の祈祷会でした。柏教会は祈祷会出席者が多く、高校生、大学生、社会人、主婦と十数人が毎週のように出席していました。その祈祷会で牧師が聖書を読んだ時、そのみ言葉が心に響いたのです、夜の蛍光灯よりも遥かに明るい光が輝き、自分がその光に包まれているのを感じたのです。それはヨハネ15:16の「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」とのみ言葉でした。その当時、私は一度は牧師になりたいと思い、神学校に行く決心をし、牧師に伝え、一人っ子の私が献身することで両親が心配すると思った牧師が、わざわざ家に両親を訪ね、説明に来てくれました。しかし暫くして、それが自分の思い込みではないかとの思いが強くなり、辞めると決心し、数ヶ月が経っていたのです。そんな自分に主が道を示してくれました。私は大きな喜びに満たされました。そして主に全てを任せ、主と共に生きる決心をし、神学校に行き、伝道者となる決心を改めたのです。それ以来、私の人生が大きく変わっていったのです。私自身その経験の前後、主を信じていること自体に全く変わりありません。しかし、信仰についての考え方、現し方は全く変わったのです。信仰の在り方は正に「十人十色」です。人によって違うし、その時々によっても違います。

 ヤイロの信仰にもう一度目を留めてみましょう。彼は死にかけている娘を癒して下さいとではなく、自分の家に来て下さいと願いました。私はここで、聖書が私に、自分の信仰についてもう一度考え直してみよと語り掛けていると感じさせられました。私達がある問題に直面した時、解決を主に願う前に、このヤイロが自分の家に主を迎えようとしたように、自分の心に「主よ来て下さい」と願い、先ず、自分の心に主をお迎えしようとすることが大事と考えさせられたのです。家族友人知人に福音を伝えても良い反応がない経験を何度もしますが、その時、自分の信仰を顧みることが大事と教えられました。自分は本当に主を信じ切っているかと。相手に救われて欲しいと思うことはとても大事です。でも「その前に、自分が本当に主を信じ切っているか自分を吟味してご覧」と、聖書はその私達に問い掛けているのです。

 主を信じるとは、主を自分の心にお迎えすることなのです。そして、その主に自分の全てを任せ切ることなのです。相手に主イエスのことを知って貰いたいと思うなら、その前に、主イエスを信じ切っている自分、主イエスを信じ切り、主に全てを任せて安心し、喜んで生きている自分を相手に見せることなのです。相手に主を信じて救われて欲しいと願うなら、相手が変わることを主に願う前に、自分の人生を主に全て任せて、自分を変えて下さいと主に願い、新しい自分に変えて戴いて相手と話しましょう。昔ある人に言われました。「自分が相手を変えようと思うな。自分が変われば相手が変わる」と。