メッセージ(大谷孝志師)
信じる主に出会う喜び
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年11月12日
ヨハネ9:18-41「信じる主に出会う喜び」

 18節にユダヤ人とありますが、安息日にしてはならないことをしたイエスが、罪人かどうかで分裂したパリサイ人達のことです。しかし彼らの中に、目の見えなかった人が見えるようになることはどうしても信じられないと主張する人々がいたのです。彼らは、主イエスによる盲人開眼の奇跡を、イエスと盲人とその家族がした誤魔化しに違いないと疑ったのです。神がイエスと共にいて、御力をもってイエスに御業を行わせたのですが、それを信じられなかったのです。私が四年前、脳梗塞で入院し、24時間点滴を三日間受け続けた時、主が癒して下さり、この教会の牧師として、夫として父として生き続けられるようにと祈り、主に癒しを求め続けました。生まれて初めて自分の病気の為に祈りました。皆様の祈りもあり、主が癒して下さいました。八日で退院し、リハビに通院する必要もなく、元通りになるまで数ヶ月はかかりましたが、牧師としての働きを含め、日常生活を続けられています。先日の下血もERに入院し、医者が異常事態に備える状況でしたが、癒され、現状復帰ができました。どうして元通りになったのかは、主が働いたと信じるしかありません。しかし、このパリサイ人達のように、主イエスが救い主、癒し主と信じない人にとっては意味の分からない話でしょう。彼らは盲人だった人の両親を呼び出し、イエスによる盲人開眼の事実を否定させようとします。両親は息子が盲目であったことは認めます。見えるようにしたのがイエスと知っていた筈なのですが、何故見えるようになったか分からないと言います。正直にその事を言えば自分達が会堂から追放されるからです。ですから「本人に聞いて下さい」と責任を逃れようとします。親であっても、究極の選択を迫られると、自分大事を優先させる人の弱さが浮き彫りになっています。そこでユダヤ人達は、目の見えなかった人をもう一度呼び出し、イエスを罪人だと糾弾する証拠を彼の口から言わせようとします。彼らにとってはイエスがその人の目を見えるようにして、彼を幸せにしたことより、イエスによって自分達の宗教的権威が損なわれることの方が重要だったのです。

 彼らは「神に栄光を帰しなさい」と言います。でも彼らは、神の為ではなく神を自分達の為に利用しているに過ぎないのですが、気付いていません。 しかし彼は「あの方が罪人かどうかは私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」と答えます。私はこの言葉から、私達の信仰生活において重要なのは、他の人々から受けた主イエスについての評価ではなく、主イエスを信じることによって、自分の生活に起きている変化なのだと教えられました。その変化を他人がどう否定しよぅと、それを自分の内にしっかりと持っていれば良いことなのです。

 ユダヤ人達はどうにかしてこの開眼の奇跡を否定しようと、イエスとこの人が何をし、何が起きたのかを再び問い質します。すると彼は「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか」と皮肉たっぷりに問い掛け、反撃に出ます。私達は、パウロにしてもこの男性にしても、強いからこのような生き方ができたと思う必要はありません。主イエスを信じる者、主が支配している世界に生きる者は、どんな困難にも負けない強さを与えられています。私達は、主を信じるなら何ものをも恐れることはないと信じれば良いのです。 次にヨハネは、彼と彼らの対話により彼らの信仰の間違いを明らかにし、私達が持つべき信仰の確信は何かを教えます、主を信じていても「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励む」ことが難しいからです。

 ユダヤ人達は、神を信じているので、神のことをよく知っていると思っていて、自分達が神の民であることを少しも疑っていません。しかし彼は、神の民なら、当然知らなければならない事を知らないと言います。私達は真の神を信じているから今ここで礼拝しています。しかし私達も、当然知らなければならない事を、知らないままでいないか、自分の信仰を吟味しましょう。真の信仰者として世に生きる為には、神を正しく知ることが必要だからです。

 彼らは「神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない」と言います。彼らは、盲人開眼の奇跡は、神がメシアを遣わすとの預言の成就で、イエスが神に遣わされて来たことを示していると知っていても、自分達のそれ迄の信仰を守るには、それを否定する以外にないと思ったからです。私達も、自分の人生で、或いは教会の歩みの中で、主がしたと分かっていても、自分のこれまでの生き方を続ける為にはと、無視してしまったり、無視せざるを得なかったことはなかったでしょうか。その時は、聖書や人の言葉を通して語り掛けた主の言葉よりも、自分の思いや自分がしたい事を優先させてしまっていたのです。

 彼は「私たちは知っています」と言い、自分も彼らも知っている事実を言います。「神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う人がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます」と。もし、イエスが神から来た方でなかったら、盲目で生まれた私の目を開けることはできなかった筈です。ですから、イエスは神から来られた方であり、あなたがたは間違っていると、パリサイ人達にはっきりと言い切ったのです。

 私達は主イエスを神と信じていても、今ここに共にいる神と信じ、従っているでしょうか。信仰生活の中で、主の言葉が心に響いた経験をしたことがあると思います。しかし、それを結果的に聞き流していて、御言葉を実践していなくても、それでも大丈夫と思わなかったでしょうか。自分は弱い人間だから、主も分かっていて赦してくれていると勝手に思い込んでいたことはないでしょうか。それでは、このパリサイ人達と同じ事をしているのです。神の御心を勝手に解釈し、御心とは違う事をしながら、自分は神に喜ばれる者として生きていると思い込んでいるに過ぎないのです。パリサイ人の言動を通して、聖書は私達に「自分にとって主イエスはどんな方なのか。私は主の御心を真摯に行っているか」と自分の信仰を吟味するよう求めています。

 私達は、主が一方的にして下さった事は主の恵みと感謝しながら、主が御言葉を示して自分に求めている事は、様々な言い訳をしながら、しないで済ませたことはないでしょうか。主が神として働いているから、私達は様々な恵みを戴いているのです。神は御子イエスの求めに応えて、盲人の目を見えるようにし、イエスとご自分が一つであると示しました。でもパリサイ人達はそれを認めませんでした。私達は主イエスが、神がいつも共にいることを意識していましょう。聖書を読み、祈り、礼拝している時に感じる主イエスを、臨在の主として敬い、心でひれ伏していましょう。主の僕として御心を行いましょう。理由を付けて、自分にできる事はし、できない、したくないと思う事はしなかった自分でいたら、悔い改めましょう。目を見えるようにして頂いたこの人は、会堂から、ユダヤ人社会から追放されることを覚悟の上で、自分に起きた事を通して知った真実を堂々とパリサイ人達に宣べました。私達も自分の人生の中で起きた神の働き、与えられた主の恵みを静かに思い起こしましょう。主は、今私達の目の前にいて、私達が主を拝し、自分の体を、神に喜ばれる聖なる生け贄として献げる者と成るのを待っています。