メッセージ(大谷孝志師)
えこひいきしない信仰者に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年11月19日
ヤコブ2:1-13「えこひいきしない信仰者に」

 教会の玄関に鍵は掛けていますが、訪問者には開かれています。しかし、大阪の池田教会や広島平和教会にいた時、平日に物乞いに来る人がいました。池田時代は月末、謝儀を頂いた頃を狙うようにして来る人がいました。幾らかを渡し、礼拝に誘いましたが来ませんでした。最後に就職するのに身なり等を整えたいと言うので、まとまったお金を上げたのですが、それが最後でした。また別の人は何でもするからと言うので庭の草むしりをお願いしましたが、礼拝には繋がりませんでした。ヤコブは今日の聖書で、例を挙げて「みすぼらしい身なりの貧しい人が集会に入って来たとします」と言いました。ヤコブの教会には、このような人でも求めてごく自然に教会に行こうと思える雰囲気があったのだと思います。当時の社会事情で、教会がそのような人々の受け皿になっていたのかもしれません。教会は、全ての人が福音を聞き、主と共に生きる恵みと平安な生活ができる為に、世に存在しているからです。とは言え、家族友人知人等、自分がこの世で関わりを持つ人々に、その事を知って欲しいと教会に誘っても、教会に来る人が少ないのは。私達の教会の方で、無意識に壁を作っているからではないかと反省させられます。

 ヤコブは「栄光の主イエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません」と言います。人を外見と言うか、自分の判断で相手を差別することは、主イエスを信じるに相応しくないと教えます。「自分たちの間で差別をし、悪い考えで裁く者と」なってはいけないのです」。彼は「集会に、立派な身なりの人とみすぼらしい身なりの貧しい人が入って来たとします」と読者に問い掛けます。人は、新しく来た人を先ずは見た目で判断します。その人が何を求めて来たのかよりも、この人を自分や自分達が受け入れて良いかどうかを優先させてしまうからです。ヤコブは世の貧しい人達を例に挙げましたが、幼い子や静かに説教を聴くのを妨げる人だけでなく、この人がいたら教会が誤解され、悪い印象を周囲の人に与えると考える全ての人が含まれていると私は考えさせられました。どんな人でも教会に来ようとして来た人は、神がその人を選んで、信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされた人として受け入れ、その人と接することが、私達が「私達の主、栄光のイエスキリストへの信仰を持」っているなら、私達にとって必要な事と彼は示唆しています。ですから、集会に来た立派な身なりをした人に目を留め「あなたはこちらの良い席にお座りください」と言い、自分お金で身なりを整えられずに、それでも教会に来たいと思って来た貧しい人には「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もと座りなさい」と見下し、馬鹿にしたようにしたら、悪い考えで裁く者となり、その人は主がマタイ7:2で言ったように「自分で裁くその裁きで裁かれ、自分が量るその秤で量り与えられることになる」からです。

 この教えは1:27の「父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っている時に世話をし、この世の汚れに染まらないように自分を守ることです」に通じるものがあります。ヤコブは、私達が「成熟した、完全な者となる」為に、御子を与えるほどに世を愛した神を信じているなら、貧しい人が必要としているものをその人に与える行いが伴ってこそ、真の信仰者と言えると教えます。ですから彼は、イエスが大切な戒めとして上げた「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」を記し、その戒めを実践する人こそが「人をえこひいきしない」立派な信仰の持ち主と教えます。

 この戒めは、主がこれより重要な戒めはありませんと言った二つの戒めの一つですが、様々な人と関わる現実の生活の中で、私はとても難しいと思わされるみ言葉の一つです。ヤコブがここで言う隣人とは、2節の「みすぼらしい身なりの貧しい人」です。私は子供の頃、上野駅の地下通路で大勢の浮浪者と呼ばれる人々の姿を見ました。何となく怖さを感じ、離れた所を歩き、親に叱られたのを覚えています。ヤコブがこう言ったのは、外見で判断し、差別してはいけないということだけが理由なのではありません。ユダヤでは隣人は兄弟、同胞と同じ意味で、同じ群れの中で共に生きる人を指します。重要なのは、この貧しい人は教会の集会に何かを求めて新しく入って来た人なのです。彼は、自分の隣人とは認めたくない人でも、その人が救いを求めて自分達の集会に来たのだから、その人を自分の仲間、共に生きる者として受け入れなさいと教えたのです。それにより、主が与えた最高の律法を守る人になり、ヤコブはその人の行い(信仰)は立派です、と言います。

 「しかし」で始まる彼の言葉に、私は身震いするのを感じました。「もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として裁かれます」は、分かります。しかし「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです」と彼が言うからです。勿論十戒に「姦淫してはならない」「殺してはならない」と定められているので、姦淫しなくても人殺しをすれば、律法の違反者になるのは確かです。しかし彼が、律法の全てを枝葉末節に至るまで完全に守り切らない人は滅ぼされると言っているのはないと気付きました。主も「これらの戒めの最も小さいものの一つでも破り、また、破るように教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます(マタイ5:19)」と教えたように。律法は神が人を滅ぼすことを目的に定めたのではなく、人が神の民として、互いに助け合い、支え合い、受け入れ合い、共に生きる為に定めたものなのです。ヤコブも教えているように、人に真の自由をもたらす為に定められたのです。

 ですからパウロもガラテヤ5:13で「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」と教えるのです。私達がそれができる者として生きられるように、主は十字架に掛かって死に、罪から解放し、私達を互いに愛し合い、受け入れ合って生きる者としているのです。しかし私達はどうしても罪を犯します。ですから「律法によって裁かれる」自分を自覚していましょう。そうすれば、自分の良い悪いを基準に相手を裁き、受け入れる受けいれないを決めずに、どんな人とも安心して共に生きられます。本当の意味で自由になれます。

 すると、聖書を読み、祈り、黙想する中で、こうすれば良いと示された事を安心して行う人になれます。示された御言葉、御心に相応しく語り、相応しく行なう自分に変えられるからです。自分の思いを超えて、相手と共に生きることを、彼は「憐れみを示す」と表現します。主は「あわれみ深い者は幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです(マタイ5:7)」と言いました。彼は「憐れみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます」と言いますが、これは<自業自得>の意味ではありません。相手に憐れみを示さないことで、神の憐れみのない裁きを受けないよう、憐れみを求めて来る人に憐れみを示しなさいと教えているのです。人は誰も自分中心の考えで相手を裁きがちです。しかし相手を憐れむなら、自分が主の憐れみを受け、罪を赦され、神に愛する子として受け入れて貰えるのです。