メッセージ(大谷孝志師)
労苦に負けず、意味を見出す
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年11月26日
伝道者4:1-16「労苦に負けず、意味を見出す」

 この伝道者の書の著者コヘレトは、3章で時と正義について述べた後、4章で人間社会の中で起きているどうしようもない悲惨な現実に目を向けます。彼は、その悲惨な現実は、強者に弱者が虐げられ、人々が抑圧する者に抑圧されることによって生じていると言います。彼は「見よ、虐げられている者たちの涙を。しかし、彼らには慰める者がいない」と言います。今も、戦争、内乱で多くの女性や子供達などの社会的弱者が悲惨な状況に置かれています。また、家庭や学校、職場、地域などの暴力、暴言等のいじめ報道を見聞きした私は、それらが明るみに出る迄、助け手のいない状況の中で苦しみ呻いた人のことを思い、心を抉られる思いになりました。

 次に彼は「彼らを虐げる者たちが権力を振るう。しかし彼らには慰める者がいない」と言もいます。コヘレトはかつてはイスラエルの王として権力を持ち、虐げられている人々を慰められました。しかし今、自分が権力を持たず、他の権力者が自分本位の生き方をし、社会的弱者が虐げられたままの悲惨な状況にあったのです。人が人として尊重されず、神の愛が人間的思いに遮られて弱者に届かず、慰める者のいないその状況を、コヘレトは淡々と描写し続けています。しかし、彼はその現状を諦め、ただ傍観者として見ているのではありません。3章で彼は、全ては神が人に従事するように与えられた仕事だと言いました。更に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とも言いました。全ては神の御手によることだと彼は知っています。しかし、神は人に自由をも与えているのです。人は神ではありません。確かに神は「ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え(2:26)」てはいます。でも人は、その与えられた自由を肉の働く機会として使い、愛をもって仕え合おうとしていないのです。

 コヘレトは、主イエス・キリストの十字架と復活以前の罪に支配され、主の贖いの死を必要とした罪の中に生きているこの世の人々の姿を、神に知恵と知識とを与えられて、そのまま描き出していると言えます。人々はこの世に生きる限り、不安と苦悩から自由になれず、真の喜びと平安を得て、希望を持って日々生きることができないでいます。ですから彼は、そんなこの世で生きながらえる人よりも、死んだ人の方が幸せなので、お祝い申し上げると言います。でも彼はこの書の中で、人には「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」と言うだけで、死後人はどうなるのかに付いて一切触れません。人は死によって、この世での一切の労苦から解放されると言うだけです。

 更に彼は、生まれずにこの世に存在しなかった人の方が、この世界で行われる悪いわざを見ないで済んだのだから良いとも言います。旧約の時代に生きるコヘレトには、これが現実世界の事実だからです。とは言え、彼は労働には労苦が伴っても、労働を悪いもの、否定すべきものとは見ていません。労働を労苦に変質させてしまう人の思いが問題なのだと指摘しているのです。更に「あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみに過ぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ」と言います。ここでも、労苦も仕事の成功も無意味と言うのではありません。労苦して仕事をした者、成功した者にしか味わえない喜び、充実感があるのは確かです。でも彼は、その中に隠された動機、妬みが潜んでいるのを発見したのです。成功を求め、向上心をもって仕事をするのは良い事、大切な事です。しかし人に内在する妬みが、競争心を煽り、激化させ「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」との主の命令に背かせてしまうので空しいと彼は言うのです。

 人は何もしないでは生きられません。衣食住を得る為には働かなければならないし、子は社会に出て働けるように親や家族の保護を受けながら成長し、学校等で教育を受けます。卒業すると就職活動をし、就職するとその職場で収入を得られるよう訓練を受けます。しかし、収入を得続けられるように、性格、目的、理由が違う様々な人との利害関係の中で、努力と工夫をしながら、労苦し、自分を犠牲にしなくてはならない時もあります。しかし生きている限り、誰でも生き続けなければなりません。コヘレトはそこに二種類の生き方があると知りました。一つは愚かな人で、先の事を考えずに、ただじっと腕組みをして、今自分が持っているものを消費しながら生きている人です。もう一つは、今持つもので満足すれば良いのに、自分に必要だと思うものを、労苦しながらも獲得し続け、その生き方の空しさに気付かない人です。

 しかしコヘレトは、労苦しながら生きている人々の中に、もっと辛く、空しい生き方をしている人々の存在を知りました。それは、家族や仲間と労苦を分かち合えずに、自分一人で生きるしかないと思っている孤独な人です。その人は、自分で一切を処理しなければならないので、次から次へとなすべき仕事をしなければなりません。それらにどんなに労苦が伴っても、自分でし続けなければならず、死ぬまで終わりがありません。加えて、自分の将来を保証する冨を自分で確保しなければならないのです。もし、家族や仲間がいれば、多少の問題や行き違いはあっても、その人の為にと労苦している楽しみを感じられ、この人の為に自分を犠牲にしていると思うと、苦しくても張り合いがあります。しかしひとりぼっちだとそのような思いを持てません。コヘレトは、そのような人生もまた空しく、辛い営みでしかないと言います。

 そこで彼は一転して、どんな人とでも一緒に生きるなら、もっと良い生き方が出来ると言います。この世には確かに生きにくいと感じることが有るのは事実です。しかし、仲間として二人で一緒に労苦していると、どちらかが倒れる時には一人がその仲間を起こすという良い報いがあると彼は言います。ですから、ひとりぼっちの人は誰も助けてくれないのでかわいそうなのです。ですから彼は、人は一人でいるより二人で共に生きる方が良いと言います。創世記2:18にも「神である主は、人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい人を造ろう」と言い、人を深く眠らせ、彼のあばら骨の一つを取り、それを一人の女に造り上げ、人の所に連れて来ました。そして二人は一緒に生きる者と成ったのです。人は一人では良くないのです。共に生きる助け手が必要なのです。聖書もこのことを私達に教えています。

 次も当然ですが、体が冷えた時、一人では寒く苦しくなりますが、二人で体を密着させると暖かくなり、とても楽になります。相手と意見が対立した時、一人だと身を引きたくなることがありますが、二人だと立ち向かう気力が出ます。毛利元就が三人の子供達に教えた三本の矢の教訓と同じように、彼も「三つ縒りの糸は簡単に切れない」と共に生きることの良さを教えます。
 最後にコヘレトは「貧しくても知恵のある若者は、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王にまさる」と言います。上に立つ者がその地位に安住、執着するのは愚かなことなのです。上に立ち、その群れを正しく導く為に必要なのは年齢でも経済力でもなく、柔軟な心で人の言葉に耳を傾け、神が与える知恵と知識と喜びとを用いて人々を導くことです。しかし世の現実を見抜く彼は、時代が変わると、人々が指導者が指導者であることだけを理由には従わない事例を知っています。世の秩序安定しているように見えても、その時々の人の思いに翻弄されるので、これもまた空しいと彼は教えます。