メッセージ(大谷孝志師)
結果を神に委ねる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年11月26日
Tサムエル24:10-11「結果を神に委ねる」 牧師 大谷 孝志

 イスラエルの王サウルは、ダビデを殺そうと追跡し、彼が潜んでいるとの情報があったエン・ゲディの荒野に来た。王は急に用を足したくなり、近くにあった洞穴に入り、用を足した。しかしそこにはダビデと彼の手勢が潜んでいた。彼らは、サウルを自分達が潜む洞窟に入らせ、無防備にしたのは主が王をあなたの手に渡し、あなたの良いようにせよとしたのだから、とダビデに言った。ダビデはサウルの上着の裾をこっそり切り取った。しかし後になって彼は王の上着の裾を切り取ったことで心を痛めた。彼は部下に言った。「私が主に逆らって、主に油を注がれた方、私の主君に対してそのような事をして手を下すなど、絶対ありえないことだ。彼は主に油を注がれた方なのだから」と。そして部下達がサウルに襲い掛かるのを許さなかった。このことから私は、教会の周囲の人々に対する考え方を教えられた。主は十字架上でご自分を殺そうとする人々の罪の赦しを神に願った。主は、全ての人を十字架に掛かって罪を赦し、救う為に死ぬ程に愛している。その人々に福音を伝えよと私達に命じている。私達がこの地という生活の場で生きているのは、私達の福音宣教によって人々が救われる為。自分達には無関係な人と見ずに、主が命を捨てる程に愛し、今も主が彼らの為に執り成しの祈りを続けている人々と思い、私達も祈りをもって語り掛け、関わっていくことが大切と教えられたから。

 さて、サウルが洞穴から出た後、ダビデも洞穴から出て、王の前にひれ伏した。そして王に告げた。王はスラエル全軍の中から、選りすぐった三千人の兵を率いて彼を捜索する為に来ている。サウルは自分が犯した罪の故に、神がダビデを自分の代わりに王とすると決め、神が彼と共にいると分かるが、彼を殺そうと追跡していた。しかしダビデはそれを知りながら、王の前にひれ伏し、拝した。そして、何故讒言を信じて私を追って来たのですか。私は、神に油注がれた方である私の主君に手を下すことはしませんと王に訴えた。サウルはダビデの正しさを認め、安全に去らせた。ダビデは神を信じ切っていたので、命を投げ出せたのは確か。しかし谷川に掛かる一本橋を渡れると信じるのと実際に足を踏み出して渡るのでは雲泥の差が。彼は主が全てを支配するとの信仰を行動に移せた。

 主は既にサウルを王位から退け、ダビデを王位に就く者として選び、サムエルに彼に油を注がせ、彼の上に主の霊が激しく降り、サウルから離れ去った。ペンテコステの日に弟子達に聖霊が降り、彼らは聖霊に満たされ、大胆に立ち上がり、主の証人となり、御霊は彼らと共にいた。だからパウロは多くの困難苦難に臆することなく福音宣教の旅を続けた。主が共にいることは人に確信と希望と勇気を与える。自分と相手を主が支配し、御心が行うと知るから。サウロは自分を殺そうとやって来ている。ダビデはサウルの性格も熟知している。怒り狂い自分を殺すかもしれないと知る。しかし彼は結果を、自分の将来を主に委ねた。自分を彼の前に投げ出した。そこに彼の信仰が現れている。

 彼が結果を主に委ねたように、私達も委ねよう。全ては主の御手の内にある。周囲にはキリスト教に無関心な人、敵意を持つまでは行かなくても私達との接触を拒否する人、嫌悪感を顔に出す人もいる。しかし主は全ての人、全ての場と時を主の愛で包み込んでいる。クリスマスのチラシを配り、挨拶し、教会に誘っても、水の上にパンを播く思いに囚われるが。私達は主の十字架の死という主の愛の証を待つ。十年一日の日々が続くのは確か。しかし結果を考え、躊躇し、何もしないのではなく、心に掛けている人に一歩を踏み出そう。今必要と思い、自分にできると思い、相手の為になると思う事をしよう。ダビデのように、結果は主に委ねて、主が守り、御心を行うと信じ、為すべきと気付いた事をしていこう。