メッセージ(大谷孝志師)
神が共にいる私達
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年12月3日
ルカ1:26-38「神が共にいる私達」

 3日からアドベント、待降節に入ります。主イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスの準備の時です。キリスト教の特別な礼拝は、このクリスマスとイースター、復活祭、ペンテコステ、聖霊降臨日です。復活祭には、十字架に掛かって死んだ主イエスが、三日目に復活したことを祝い、礼拝します。聖霊降臨日には、主の復活の五十日目に、主が昇天前に約束した聖霊が降臨し、使徒達が主の証人として活動を始めた日、言い換えるなら、教会の誕生を祝い礼拝します。クリスマスには、神が人となってこの世に誕生し、誰でも主イエスを信じるなら、神の子となり、永遠の命を得て神と共にいられるようになる神の計画が実行に移されたことを感謝し、礼拝します。このように、十字架に掛かって死んだ主が三日目に復活したこと、聖霊が降臨し、ユダヤ人達を恐れ、身を潜めるようにしていた使徒達が、立ち上がって大胆にユダヤ人達がローマの手を借りて殺したイエスこそ、神が世に与えた救い主と宣べ伝える者となったことは、この世の知恵。常識を遙かに超え、神がしなければ出来ないことです。全ての人にとって、信じるしかない出来事です。

 今日の「御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町に住む、一人の処女のところに来た。」という事も、誰もが簡単には信じられない出来事です。主の使いが現れ、そこが神が臨在する神の国であること、そしてこの世が神の国であり、神が全てを支配する世界であると神ご自身が明らかにしたことを意味することだからです。聖書は、神ご自身がこの世に直接介入することによって起きた出来事により。全ての人の罪を赦し、永遠の命を与え、神の子とする神の計画が始まっていると私達に教えます。

 ユダヤ人達が待ちに待っていた出来事ですが、万物の創造者であり、支配者である唯一の神を知らない全ての異教徒にとっては信じられないことです。しかし、この事が起きたから、私達は主イエスを信じ救われ、今こうしてこの会堂に集まり、また、ライブ配信を受信しながら礼拝をしているのです。

 さて、六ヶ月目とは、神殿に仕える祭司ザカリヤに御使いが現れ、主イエスの先駆者となるバプテスマのヨハネの誕生を知らせた日から数えて六ヶ月目です。ヨハネ誕生の知らせは男性のザカリヤに伝えられましたが、イエスの誕生の知らせは、母となる女性マリアに伝えられました。ユダヤ教では御使いが村の娘に現れて告げることはありませんでした。彼女が戸惑い、恐れたのは当然です。しかし御使いが彼女に現れ、語り掛けたことは事実なのです。彼女はその事実により、全く新しい人生に踏み出します。私達も御使いの姿は見えなくても、主が共にいるとしか思えない出来事を経験する時があります。それを他人に話しても信じて貰えません。でもその時私達は、大きな人生の転換を経験し、それ迄考えられなかった生き方を実際にしたのです。

 御使いは入って来て突然「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言います。ザカリヤは、現れた主の使いを見て、取り乱し、恐怖に襲われました。しかし、マリアはひどく戸惑いましたが、落ち着いています。神が共にいると言われ、御使いのこの挨拶は何の事かと考え込んだからです。私も聖書を読み、祈り、説教準備をしている時、御言葉が響き、語るべき事が示される時が有ります。主が御心を示したからです。感謝です。

 マリアがひどく戸惑ったのも当然です。こんな自分が何故おめでとうと言われる恵まれた者なのか。主が共にいると言われたが、主はどこにいるのだろうと、幾ら考えても分からなかったので。彼女も戸惑うしかなったのだと思います。人は御心を推測することは出来ても、真実は分からないからです。

 しかし、御言葉を心で受け止め、その意味を思い巡らすなら一歩進めます。私達を用いようとしている御霊が答えを示すからです。マリアもそうでした。御使いが言うように主が共にいるからです。ガリラヤの山で弟子達に会った復活の主は彼らに言いました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにます」と。私達も主が共にいるから、こうして主を礼拝し、日々安心して生活が出来るのです。共にいる主を畏怖し、敬うことは大切です。それは畏怖であって、恐怖ではありません。ですから御使いは彼女に「恐れることはありません」と言ったのです。大切な事は、自分は今神の国にいる、と信じて生きること、その重さをしっかりと感じ、自分の生活の中で、御心が行われるようにとの思いをもって、御前にひれ伏す思いで生きることです。

 私達は今主を礼拝しています。恐いと思っているでしょうか。怖いと思っていないと思います。主が共にいても恐れる必要はないと知っているからです。主から恵みを受けているから自分はここにいると知っているからです。

 さて、御使いは彼女に「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」と言いました。そして「その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼に強い父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません」と告げました。「青天の霹靂」という言葉がありありますが、彼女にとって驚くべき事が告げられたのです。自分に子供が生まれ、その子がこのような子ですと言われたのです。しかしその子がどんな子かどうかは兎も角、彼女はまだ、ダビデの家系のヨセフの許嫁でしかないのです。ユダヤの許嫁は法的に妻と同じ義務と責任を負い、同格です。しかしマタイ1:24に「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた」とあるように、彼女はこの時はまだ父の家にいて、夫に家に迎え入れられる前だったのです。ですから、夫婦として生活する前に妊娠して子供が生まれると言われたから驚いたのです。しかしここで一番重要な事は、人の常識では考えられない事が起きる、と御使いが彼女に言ったことなのです。

 マリアは、確かに神に愛され、思慮深く、従順で、信仰深く、神を崇め、律法の定めに忠実な信仰者です。しかし、彼女がそのような特質を持つ女性だから、神は彼女を選んだのではありません。彼女は、神が全ての人を救う御心を行う為に必要な女性として選び、そのような女性として生きる為に神から恵みを受けたから、彼女はそのように生きられたのです。そして彼女が神の子を産み、その子はダビデの王位を永遠に受け継ぐのだが、それら全ての事は聖霊が彼女の上に降ることによって起きる、と御使いが告げたのです。

 妊娠し子が生まれることによって、マリアの人生は大きく変わりました。このマリアに起きた事は、私達に起きている事なのです。私達も彼女のような特質をもって生きる事が求められています。でもそのような特質を持っていたから、神は私達を教会に招き、福音を信じる者としたのではありません。私達を神の子とし、永遠の命を与え、神と共に生きる者とする為なのです。私達を主の証人として、世の人々の所に行って福音を伝え、私達と同じ主の弟子とする為です。私達に聖霊が降ることによってそれが可能になりました。

 御使いがマリアに親類のエリサベツの妊娠を知らせたのは、マリアに妊娠が確かに起きると知らせる為です。私達にも主は他の信徒の生き方を見せて、このように生きられると知らせています。更に、マリアにこの事は必ず起きると知らせました。私達も無理と思う必要はありません。なぜなら「神にとって不可能なことは何も」無いからです。必要な事は、彼女のように「私は主の僕です。お言葉通り、この私になりますように」と言うことだからです。