メッセージ(大谷孝志師)
実を豊かに結ぶ者に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年12月3日
ヨハネ15:1-10「実を豊かに結ぶ者に」 牧師 大谷 孝志

 主イエスの言葉の厳しさに驚くことがある。以前私は、主のぶどうの木の譬え話の「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を蒸すものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます」のみ言葉に、神は冷たく恐いとの印象を受けた。でも、続く「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです」にハッとさせられた記憶がある。しかし或る時、1,2節は旧約、律法の世界のままでは、実を結ばない枝は切り捨てられ、取り除かれるように、罪人は滅ぼされることを。しかし今は4節以降の新約の世界で、主の十字架の死と復活によって、主に繋がっていれば実を結べる恵みの世界に生かされることをこの譬えは教えていると気付かされた。

 しかしこの譬え話はもっと大切な事を教えている。確かに農夫に譬えられている父なる神は、実を結ばないもの、つまり神に喜ばれない者として生きていると、神の民から取り除き滅ぼす。しかし今、主イエスを信じ救われている私達は、主の十字架の贖いにより、きよい者とされている。神の恵みを受けるにふさわしい器とされている。私達は、主イエスに繋がってるならば実を結ぶことが出来る。

私達は日頃の生活の中で、 その人の言動を見て、その人の価値を判断しがち。実を結んでいるか、何か主の為に役に立っているかいないかという結果を先ず考えてしまう。しかし大切なのは、その人が主に繋がっているかどうか。主に繋がっているなら、その人は自分の信仰の歩みの中で実を結ぶ者として生きているとその人を認めることが大切。主は確かに、私というぶどうの木に繋がっていない枝は実を結べない。だから、父なる神はそれを取り除き、外、つまり神の国の外に投げ捨てられて枯れると主は教えている。しかし、礼拝を休んでいる人や教会を離れている人を、神がこの教会、神の国から取り除いたと考える必要は無い。

主は、人が私に繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶと言う。繋がるとはどういうことか。それは主のみ言葉を求めること。主の助け、癒し、励まし、戒めが自分に必要だと思い、求めること。生活の中で、主に尋ね、委ね、任せること。主は私がどんな成果を上げたかを問わない。結果ではなく、私が主への正しい姿勢を持っているか。心を主に向けているかを見る。

 しかしこの箇所は、弟子達への教えの一部。主は何故彼らに「私に繋がっていなさいと言ったのか。それは主を信じていても信じ切れず、委ねきれない時があると知るから。「望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩む時、数えてみよ主の恵み」という聖歌がある。世の嵐に悩んでいると信仰所ではなくなってしまう弱さを人は持つと主は知る。主は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言うが、そのみ言葉が頭の上を通り過ぎてしまう時もある。人は弱い。だから主にしがみ付くように、主に繋がっていようとする自分の意思が必要。とは言え、姿が見えず、声も聞こえない主にそうすれば繋がっていられるのか。主は「わたしの言葉があなたがたのうちにとどまっているなら」と言い、「わたしの愛にとどまりなさい」と言う。そうするなら、御言葉が主が臨在する確信を与え、主の愛が私達を包み込み、主のものとされている喜びで私達を満たす。そして私達は実を豊かに結ぶ枝となれる。しかし私達が実を結ぶのではない。ぶどうの木の主が繋がっている枝の私達に実を結ばせている。そして何より、私達が豊かな実を結ぶ枝となったことを、主が喜んでいる。