メッセージ(大谷孝志師)
現実を受け入れて生きる私達
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年12月10日
マタイ1:18-25「現実を受け入れて生きる私達」

 私達は突然、自分がとんでもない状況に置かれていると知らされることがあります。主イエスの父となったヨセフもそうでした。1:16に「ヤコブが、マリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった」とあります。ヨセフは、神に選ばれ、祝福され、全ての民が彼によって祝福されたアブラハム(創世記12章)の子孫で、イザヤ10章で、その子孫から救い主キリストが生まれると預言されたダビデの子孫でした。今日は、このヨセフに起きた出来事を通し、約二千年前に起きた主イエス誕生の意味を学びます。

 主イエスの母となるマリアはヨセフと婚約していました。ユダヤでは婚約中は約一年間一緒に生活せず、女性は父の家にいました。この期間が終わり、婚礼を挙げると、実際の夫婦生活に入りました。マリアは婚約期間中に、聖霊によって妊娠し、既に外目にも分かるようになりました。「聖霊によって」とありますが、マリアは聖霊によって妊娠した事実を、彼に伝えていなかったと考えられます。ヨセフは神を信じ、神の民として御心に従う正しい生活をしていました。もし、主の使いがマリアに現れて、彼女が聖霊によって妊娠すると告げ、その通りになったと知ったなら、離縁しようと思はなかった筈だからです。ですから、彼が離縁しようと思ったのは、マリアが他の男性の子を妊娠したと考えたからです。それに、世の人々に律法を守る正しい人と思われていても、欲望に負けてマリアを妊娠させたと思われるかもしれない、と考えたのです。自分か妻が罪を犯したとされ、裁かれることに耐えられなかったのでしょう。

 それに、婚約中に相手に死なれた女性は「やもめの処女」と呼ばれ、曝し者にされました。離縁された女性も同じように辛い思いを引きずって生きることになります。そうならないように、密かに離縁しようと心に決めました。この「思う」は、ただそう思ったというより「そう決めた」という強い意味を持つ言葉だからです。とは言え、正式に婚約したのですから、ひそかに離縁すると決めても、そう簡単にできるものではなく、考え込んでいたのでした。

 すると、その彼に主の使いが夢に現れたのです。ルカでは、御使いガブリエルがザカリヤとマリアに姿を現したのですが、マタイではこの時の他、2:12で東の方から来た博士達に、2:13と19でヨセフに、主の使いが夢で現れて、何をすべきかを教えています。マタイとルカも目撃した事実ではなく、自分達に御霊が伝えたことを記しています。ですから、その記事の重さに違いはありません。

 私も夢を見ますが、目を覚ましても夢の中で誰かが言った言葉を思い出そうとしても、ぼんやりとして正確に思い出せません。でも御使いの言葉は、正確に伝えられています。ですから単なる夢の世界の事ではなく、現実と同じ重さを持つことが起きたと御霊が知らせているのです。御使いは「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです」と言いました。御使いは「ヨセフよ、恐れることはありません」ではなく「恐れずに妻として迎えなさい」と言ったのです。彼は妻マリアの妊娠を知り、密かに離縁しようと心に決めましたのですが、離縁は重大な結果を招きます。離縁によって、マリアだけでなく自分も大きな重荷を負うことになります。その事を考えると、自分とマリアにとってどうすることが一番良いのかと考えると、不安や恐れが先に立っていたのです。主の使いはその彼に、今二人に起きている事は、主の御心によるのですと教えたのです。今起きている事の意味を自分の頭の中で、自分が何とかしなければと考え、混乱していた彼にとって必要なことは、神が全てを支配し、全ての物事を行っている世界に自分が生きていると知ることだったからです。

 ヨセフは、マリアの妊娠を知った時、今自分に起きていること、それによって自分がしなければならないことが次々と頭に浮かび、余りの事呆然としてしまったのではないかと私は思いました。私達も突然、自分がとんでもない状況、しかも自分の手に余る状況に置かれていると分かった時、気が動転しました。何かをしなくてはならないと思い、それをしなければと決めても、別のもっと良い方法があるのではないか、との考えが次から次へと浮かび、考えが堂々巡りしてしまったです。「思い巡らしていた」という言葉に、彼もそんな感じだったのではと説教を準備しながら考えました。

 しかし主は、数多くのダビデの家系の人々の中で、このヨセフを選んだのです。御使いが彼の夢に現れて、御心を告げたのです。主が、主の使いを彼に遣わし、彼に働き掛けたのです。御使いは「ダビデの子ヨセフよ」と語り掛け、彼に、自分がダビデの子孫であることを確認せたのです。人にとって、自分が何者であるかを確認させられるのは重大なことなのです。私も、教会の中で自分は誰にも期待されていない、自分は孤独だと落ち込み、悲しんでいた時、主の「私があなたの友だよ」との御声が心に響きました。「主イエスが友達の自分」だと知った時、私は喜びに溢れ、主を信じてキリスト者になる決心をし、私の人生は大きく変わりました。自分が何者かを知ることは重大な事です。しかし「自分捨て、自分の十字架を負って私に従いなさい。私の証人となり、人々に福音を伝えなさい」と、将来自分が歩むことになる道を示されたのは、もっと先のことになります。

 御使いはヨセフに「恐れずにマリアを妻として迎えなさい」と、彼が今なすべきことを命じました。更に、彼が離縁を決意した原因が彼の思い込みで、真実は、マリアは他の男性によってではなく、聖霊によって妊娠したのであり、御心によるのだから、安心して迎え入れれば良いと教えたのです。突然自分がとんでもない状況にいると分かると、気が動転します。理由もその先の事もどうなるか分からないので、そのままで良いのか、自分が何とかしなければならないのかと思い、更に、自分の手に余り、どうしようもないと思うと、不安や恐れに苛まれいます。しかし、その現実が御心と信じられると事態は一変します。現実を、そしてこの後何があろうと起きようと、全ては御心と信じられると、安心して、現実と将来を自分の事柄として、安心して受け入れられるからです。

御使いは彼に「マリアは男の子を産みます。その名をイエスと名付けなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるからです。」と言いました。マリアが救い主の母となると共に、ヨセフが救い主の父となると告げたのです。自分が全人類の歴史の中で大きな役割を果たす務めがあると彼は知らされました。これは確かに大変なことです。しかし、実はこのヨハネだけに限らないのです。私達一人一人もこの世に生きている限り、全人類とまでは行かなくても、自分が生きる世界の中で、何らかの大きな役割を託され、或いは果たしていると知ることが大切なのです。私達は誰もが、神にその役割と責任を与えられてこの世に生まれ、生きているのです。神の御心の中に、神の計画を実行する者として生きているのです。

 そしてマタイは、ヨセフの妻マリアに起きる事は、イザヤ7:14の預言が成就することと私達に教えます。私達も、私達の信仰生活の出来事は、エレミヤ29:11にあるように、主が私達の為に立てた計画の成就で、主が平安を将来と希望を与える計画の中に私達は今生きていると信じましょう。

 主がマリアとヨセフを全人類の中から選んだように、私達も主に選ばれ、一人一人を大切な主の御用の為に任命したから、今、この教会でキリスト者、主の働き人として生きているのです。主は今も、インマヌエルと呼ばれる方として私達と共にいます。ヨハネが眠りから覚めると、御使いが命じた通りにマリアを迎え入れたように、私達も自分に示されたみ言葉を受け入れ、主に従ってこの世に生きる者となりましょう。