メッセージ(大谷孝志師)
主を信じて生きる喜び
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年12月10日
ローマ8:1-6「主を信じて生きる喜び」 牧師 大谷 孝志

 私は教会に通うようになって初めて、自分が接する人に誠実に、そして主に忠実にいきられるよう助けて下さいと祈るようになった。だから自分が良いと思う事をしたい、悪いと分かった事はしたくないと思っている。しかし人は様々、合う人もいれば合わない人もいる。また、普段は何でもない人の言動が赦せなかったり、見過ごせなかったりする。疲れたり、苛々すると顔に出たり、言い返したりもする。そんな自分は何て嫌な性格かと落ち込む事も。パウロはローマ7章で「自分でしたくない事をしているなら、それをしているのは私ではなく、私の内に住んでいる罪です」と言う。主イエスを信じ、主が共にいる喜びを感じていても、人として生きる限り、罪と死の律法の虜になっているのが人間。そして主の愛に応えられない自分の惨めさに気付き、葛藤して叫ぶ。これが世に生きる信徒の現実では。パウロはここで、主の十字架と私達信徒の為に、自分を曝け出している。彼は、罪に藻掻く自分を受け入れ、この自分を恵みと平安の中に生かす神に感謝している。このパウロの葛藤と感謝を思うなら、私達もこの世で強く生きられる。

 教会に来て私が変わったもう一つの事がある。私は相手を、そして将来を信じられるようになった。私にも友達はいた。でも、相手の気持ちや基準に振り回され、こんな友達ならいない方がましと思ったことも。そして一人になると、死や虚無に惹かれ、そんな詩ばかり書いていたことを思い出す。教会に来てみると、先輩のキリスト者が、先ず私の為に何が良いかを考え、自分の基準では無く私の基準で考えようとしていることに驚いた。彼らは「肉に従わず、御霊によって」私に接して来た。私に利用価値があるかないかと自分の基準で私を見るので無く、主ならそうするか、主はこれを喜ぶかどうかが基準だった。私も主イエスを信じて、そのように相手を見られるようになった。「心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて主を知れ」と箴言にある通りに。

 でも世にも教会にも様々な人がいるので、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝できれば良いと分かっていてもそうはいかない。相手とぶつかることも。或る人が叱ると怒るは違うと教えた。人は怒ると感情を生で相手にぶつけている。相手より自分の立場、損得を第一にしている。相手を自分より下に見ていると。叱る時は、相手の立場や将来を考え、直すべき所を指摘している。勿論、相手の生き方を否定することもあるが、師匠が弟子が精一杯の力で仕上げた作品を話しならぬとぶち壊し、技術や品性の向上を阻んでいる思い上がりをぶち壊し、一段の成長を図る為に、今の相手を否定しているだけ。しかし人は弱いので、叱るよりも怒ってしまい易い。だから相手を、相手がした事を十分に理解しているか、止まって考える勇気と慎重さが必要。十字架と復活の主がこの私を受け入れてくれたように、その主の愛をもって、主のように相手を受け入れるなら相手と共に成長できる自分になれる。だから、その主の愛を心に刻み直そう。主は私が自由と喜びをもって生きる為に、十字架に掛かって死んで下さった。その愛をもって、自分が接する一人一人と、勇気を持って大胆に共に生きよう。罪に縛られ、その奴隷となっている自分を捨て、主に縛り付けられた主の囚人となろう。その時、私達は真の意味で自由になれる。自分の殻に閉じこもるので無く、目の前に広がる主が共にいる愛の世界、真の自由な世界に飛び込み生きよう。相手に何が必要が、そして私がその為に何をすべきかを自由に考えて、自由に行える私になれるから。