メッセージ(大谷孝志師)
心の客間に主を迎えよう
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年12月17日
ルカ2:1-7「心の客間に主を迎えよう」

 次週聖日はクリスマス礼拝です。全ての人の救い主、主イエスの御降誕を一人でも多くの人と祝えるように祈りつつ、この一週間を過ごしましょう。 「その頃」は、マリアへの受胎告知から数ヶ月が経ち、親類エリサベツがバプテスマのヨハネとなる男の子を産んだ頃です。主イエスは「ナザレの人」、ナザレから出た預言者と呼ばれました。主は公生涯と呼ばれる神の福音を伝える働きをする迄、ガリラヤの町ナザレで大工として働いていたからです。しかしイエスの父となるヨセフは、既に身重になっていたマリアと共に百数十`も離れたベツレヘムに向かいました。それは、ローマ皇帝が自分の町で住民登録をせよとの勅令を出し、彼がダビデの血筋であり、サムエル記上17章に、イスラエルを治める者が出るとミカ5章に預言され、ダビデの町と呼ばれたベツレヘムが自分の町だったから、二人はこの町に向かったのです。

 教会でよく行われる聖誕劇では、二人が町に着き、宿に泊まろうとしてもどの宿屋も、住民登録をする為に自分の町に帰ってきた人々で一杯で泊まれません。しかし、親切な宿屋の主人が彼らに、馬小屋なら空いているからと言い、そこに泊まらせてくれます。そしてその夜に主イエスが生まれます。

 しかし聖書には「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ」とあります。ベツレヘムに来た二人は臨月になるまで宿屋に滞在していて、その後、月が満ちてマリアはイエスを生んだと思われます。7節に「その子を布にくるんで馬桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所が無かったからである」と書かれています。この事から、主イエスは、家畜を飼う馬小屋か、洞穴で生まれたと考えられています。しかし、聖書は宿屋に彼らのいる場所、つまり新生児を安全に寝かせておける場所が無かったと記しているだけです。次週の燭火礼拝で学びますが、2:9で、羊飼い達に御使いが「あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と告げました。マリアから生まれた子が主キリストであり、この子の誕生は、全ての民に与えられる喜びと知らせたのです。この生まれたばかりの新生児が、全世界の人々の主であり、救い主と告げたのです。

 しかし、彼らがいた宿屋には新生児を安全に寝かす客間のような場所がなかったのです。それで飼い葉桶のある場所で、布にくるんで寝かせたのです。

ユダヤの飼い葉桶は壁掛けで、地面から離れいて、新鮮な飼い葉は温かく、新生児に害のあるものではありません。当時の新生児は、体を真っ直ぐに保ち、適切に成長するようにと布にくるんで寝かせました。ですからこれらは貧しさを強調するものではありません。とは言え、全ての人々の主として生まれたキリスト・イエスを迎え入れるに相応しい場所とは言えないのは確かです。しかしこの誕生の情景は、主がピリピ2:8に「人としての姿を持って現れ、自らを低くして」あるように、どんな人でも、主が自分と同じ所にまで降りて来て、自分と共におられると思える場所と姿で生まれたことを現しているのです。主イエスがいと高き方の子、神のひとり子であり、聖なる方であるのに、貧しい大工の子、旅先の宿屋の飼い葉桶が置かれているような所で生まれたことによって、神が世に与えた救い主は、自分が生きている状況が、自分の力ではどうにも抜け出せないと思ったとしても、その自分を助ける為に、自分がいる所、自分は最も低い所に押し込めらてしまったと思っているその所まで降りてこられた方である、と聖書は私達に教えているのです。私達は主がこのように生まれたと知ることで、人生をこのままで終わってしまわず、先に道がある人生と信じ、前向きに希望を持って生きていけます。

 クリスマスには、様々な教会で聖誕劇をしてきました。劇では、御使いガブリエルのマリアへの告知に始まり、羊飼い達への天使達の言葉、お祝いに駆けつけた羊飼い達と東の国から星に導かれて来た三人の博士達の登場と、晴れやかな喜びに満ちた光景が繰り広げられます。しかし私は以前、クリスマスにこの箇所の説教を準備する時、それらの華やかさとは対照的な「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」という言葉に、虚ろな寂しさを感じさせられました。しかしこの光景こそが、ヨハネ3:16の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が人も滅びないで、永遠のいのちを持つためである」との御言葉の意味、神が御子を世に与えなければならなかったこの世の状態を表しているのです。

 神は人をご自身のかたちとして創造しました。そして、地の全てのものを支配せよと命じました。しかし、最初の人アダムとエバはエデンの園で神と共に平和に暮らしていましたが、神がしてはいけないと命じたことをする罪を犯して、神と顔と顔を合わせて生きていたエデンの園を追放されました。

 神の御心が分からなくなった人々は、神に喜ばれない事をし、神は人を創造したことを後悔し、ノアの家族と雄と雌がつがいになって箱船に入った動物以外の全てを滅ぼします。しかし神は、ノアの信仰を喜び、彼と息子達との間に契約を立て、人の心は幼い時から悪だけれども、人の悪の故に大洪水によって生き物全てを滅ぼすことはしない約束をします。しかし、人はやはり御心が分からず、不安や恐れに囚われ、自分達のことは自分達で守らなければと思い、自分達がバラバラになって弱体化しないようにと、自分達の力でバベルの塔を築き始めます。しかし、神が介入して、言葉を混乱させました。結果、心が通じ合わなくなり、今に至るまで、人は自分さえ良ければ他人はどうでも良いとの思いに囚われています。しかし神はそのように生きる者として人を創造したのではないので、アブラハムを神の民として選び、神と共に生きる模範としたのです。彼は神に告げられた通りに行動し、その信仰の故に、イスラエルの人々は彼を信仰の父と呼んで彼の信仰に倣っていました。

 しかし、人が自分中心、自分大事の考えから自由になれず、神が願うような生き方が出来なかったので、神はご自分が彼らの神であり、自分達が神の民であることを心に刻めるように、一旦、彼らをエジプトで奴隷状態に置き、モーセを指導者として立て、御力をもってそこから彼らを脱出させ、神の民として守るべき律法を与え、40年荒野を放浪する試練の時を与え、神の民の自覚を持たせようとしました。しかし人が、神の事より自分の事の考えから自由になれないので、心から神に立ち帰るようにと、預言者を遣わし続けました。しかしできなかったので、神は最後に、御子イエスを世に与え、主イエスの十字架の死によって、主イエスを信じるなら、滅びることなく救われ、永遠の命を与えられ、主と共に生きる者となる道を全ての人に開いたのです。

 そこ迄、神が人を愛し、人に手を差し伸べ続けても、人は頑なに心を閉ざし続けています。世の人々は、自分達の救い主が生まれているのに、自分達の心を自分達の為のもので一杯にしたままです。主イエスが、相手を自分の隣人として愛し、受け入れ、共に生きる者となるという人としての最も良い生き方が出来るようにする為に、世に生まれ、全ての人の罪を贖う為に十字架に掛かった死んだこと、そして復活して、今も生きて人々に働け掛けていることが分からないままです。ですから、主イエスを自分の心の一番大事な所に迎え入れる気持ちになれずにいます。その事を「宿屋には彼らのいる所がなかった」という言葉が示しています。私達自身が主を自分の心の客間に迎えて生きていることで、主の素晴らしさを世の人々に伝えて行きましょう。