メッセージ(大谷孝志師)
主の生き方に学ぼう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年12月17日
ピリピ1:13-18「主の生き方に学ぼう」 牧師 大谷 孝志

 人は自分はどう生きたら良いのかと考えることがある。誰も間違った生き方をしたいとは思わないが、自分にとって良い生き方、人に認められる生き方をしたいとは思う。しかし、これだという自信は持てないのが普通。でも自分が自分である為には良い生き方をしたい。だから迷いながらも模索し続ける。また、人は充実した人生をと願うし、他人とも良好な関係を持っていたい。家族や友人と角突き合わせて生きる人生はごめんと思う。とは言え、人は一人で生きているのではないので、自分の家庭環境や友人、先生の影響を受け、その過去の人生の延長線上に自分の個性が作られている。だから、個性の違う人々の間で様々なトラブルを経験せざるを得ない。それに、人は利己心に縛られ、口では相手の為と思いながらも、結局は自分の為に生きているのも、トラブルが生じる原因となっている。

 この手紙の読者は信仰の篤いキリスト者。この教会は著者パウロと最も親密な関係にあった。彼は、この教会の人々を思う度に自分の神に感謝していると言う。確かに人は正しい生き方、善い生き方を求めている。しかしどうしてもその基準が自分自身なので、ぶつかり合いが生じ、時に傷つけ合ってしまうことも。これは言ってはいけない事と分かっていてもつい口から出てしまうとことがある。自分や相手に苛立ち、悲しい思いになることも。黙っていればよいと思っても、ストレスが溜まり、限界を超えると爆発し、ひどい結果になることもある。ピリピ教会も素晴らしい信仰の持ち主だけだったのではないと思う。パウロは「ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません」と1:17で言う。この教会も人の群れだから様々な人がいた。彼が彼らの為に祈る度に感謝しているのは、彼らが完全だからではなく、完全を目指しているから。その完全とは何か。それは主の生き方、主の姿。彼は主イエスは「人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました(2:7、8)」と言う。彼らがこの主の生き方、姿を、パウロの宣教を通して知らされ、それを目指して生きていたから。私達も聖書を読み、祈り、主との霊的交わりを経験する中で、主の生き方、姿を思い浮かべる。しかしその時、これは単なる目指すべき目標ではないと知ることが大切。主イエスがこのように生きたのは、私達もこう生きられると示す為。主との霊的交わりの時を持てるのは、主が共にいて助け、それができるようにと導く為。だから、主を彼は「あなたがたの間で良い働きを始められた方」と言い、この教会の人々がその生き方を目指し、福音に相応しい生活を目指していたから、主が「キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成せて下さると、私は確信している」と言う。

 主イエス・キリスト以外に完全な人はいない。しかし完全な人を目指すことは出来る。完全な人として主に受け入れられ、主と共に永遠に生きられると信じることは出来る。十字架と復活の主が私達を愛し、今も生きて共にいるから。その主の姿に学び、自分にも出来ると信じよう。その信仰を堅く持って生きよう。主の徹底した父なる神に従順な生き方に倣うなら、私達も主に喜ばれる生き方が、キリストの福音にふさわしい生活ができると知ろう。主は、他の人の存在を感謝をもって受け止め、喜んで共に生きる道を、ご自分の生き方、死に方によって私達の為に開き、その道を私達と共に歩んでいる。その主が私達に「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝する」者となるのを望んでいる。主のその思いを心に刻みつつ世に生きていよう。