メッセージ(大谷孝志師)
力強く主と共に歩もう
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年1月7日
エペソ6:10-20「力強く主と共に歩もう」

 明けましておめでとうございます。2024年の新しい歩みが始まっています。しかし、まだ2023年度で、これから3ヶ月間、今年度の仕上げの時が始まることになります。そうは言っても、お正月は、新たなる思いを持って歩み始めるのに一番相応しい時だと思います。しかし、考えてみますと新しい年が来るとなぜおめでたいのでしょうか。12月31日午後11時59分59秒と1月1日午前0時00秒とは瞬きする程しか変わらないのに、テレビでは「おめでとう」の連発が0時の時報と共に始まります。教会では先々週「おめでとう」の挨拶を交わしました。クリスマスを祝う礼拝をしたからです。クリスマスがなぜおめでたいのでしょう。それは、神様が全ての人を救う計画を実行に移された日だからです。私達が心に思い浮かべられるし、共におられると感じられる救い主イエス様がお生まれになったことを祝う日だからです。皆、喜びと感謝に溢れて「イエス様がお生まれになって良かったですね」「イエス様と一緒にいられるようになって良かったですね」との思いを込めて「クリスマスおめでとうございます」と互いに挨拶を交わしました。

 それでは私達は今日、どんな理由で「おめでとう」と挨拶したのでしょうか。新しい年になって初めて会ったからでしょうか。でも、その事にどんな意味があるのでしょう。教会の様々な祝日を定めた教会暦というものがありますが、それは待降節第一聖日から一年が始まります。元旦と言うと、昔、私の高校生の頃は、欧米では、元旦はクリスマス休暇の中の一日に過ぎず、日本程元旦を祝わないとテレビが報じていました。しかし、今では世界中で新年を祝うようになっています。もっとも中国などの国では、旧暦の正月を「春節」と呼び、新年を祝っています。どのような国や民族でも新年、年の区切りに、人は特別な思いをもって何かを期待するからだと私は思います。

 とは言え、一年、12ヶ月、365日、毎日、毎月、新しい日が、新しい月が始まっているのに、特別に元旦だけに「めでたい」という思いを持ち、新しい歩みに期待するのは、人間が持つ弱さに原因があるからだと私は思います。人は、毎日毎日生きることで精一杯なのです。毎日、毎日、全く同じような事をしている訳ではないのですが、またこんな事をしなくてはならないのかと思うと、嫌にもなります。でも社会の中で、他人との関係の中で生きている以上、嫌でも繰り返さなければなりません。自分の考え方や生き方を変えよう、新しい生き方をしたいとは思います。でも、そうは思っても簡単に変われないのが私達です。ここを改めよう、あれは止めようとは思うのですが、なかなかそうできない弱さを持つのが、私達人間だからではないでしょうか。

 だからこそ、人は誰もが新年に期待するのかもしれません。旧い年が過ぎ去り、新しい年が来たことを、改めて前向きに考えようと思い、今迄の自分とは違う自分として生きられるのではないかと考えるのです。普段の自分ではどうしようもないとしても、年の変わり目という誰もが変化を期待する時なら、こんな自分でも何とかなるのではと期待するからではないでしょうか。

 さて、私達は救い主イエスを信じ、今日も新年礼拝を守っています。「神に出来ないことは何一つない」との主の御言葉を信じています。しかし私はこの教会に赴任して七年目の新年を迎えていますが、自分がどんなに祈り願い続けても、何故主はこの願いを聞いて下さらないのかと思うことが多いのが現実です。主を信じています。いえ、信じているだけに、自分の生き方や考え方を変えたい、今の自分よりも、こういう事が出来る人になりたい、ああいう人のようになりたいとの思いが強くなって来ています。新年を迎えて、礼拝に来ている皆さんも、これ迄の自分の歩みを振り返り、この一年の歩みがもっと望ましいものとなるようにと主に願っているのではないでしょうか。

 しかしそう思っては見ても、自分の人生を振り返ってみると、余り変わらない結果になるのではと思ってはいないでしょうか。ですが私達は、2024年最初の聖日礼拝に主に招かれているのです。下を向かないで上を見上げましょう。私達を愛している父なる神様、私達を包み込んでいる主イエス・キリスト様、そして共にいて、教え導いている聖霊様を思いましょう。主を信じる私達は、これ迄の信仰生活の中の様々な経験を通して、御心ならば、私達の願いが実現すると知っている筈す。ですから、この一年をどう生きたら御心を行う人になり、力強く生きられるのかを、どうしたら変われるのかを、主に尋ね求めましょう。主は求める私達に答えを与える方だからです。これ迄の経験から、どう祈ったらよいか分からないと思うかもしれません。でも、パウロがロマ8:26-27で「私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」と言うように、私達には力強い味方がいます。またヘブル4:16にもこう書かれています。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と。今朝の御言葉もその事を私達に教えています。

 パウロはここで「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と勧めます。これが私達が力強く生きる者となる為に必要なのです。変わりたいと願うなら、強くなりなさいと彼は言います。私達は強くなれるからです。その為に必要なことは「主に依り頼むこと」とです。他の神や仏でも、超自然的存在にでもなく、ましてや自分の内に秘められているかも知れない能力にでもなく「唯、主に依り頼みなさい」と彼は教えます。主イエス様によって、主を信じる信仰によって、私達は強くなれるからです。何故なら、私達の主は「偉大な力」を持っていて、それを私達に分け与えることの出来る方だからです。

 主を信じているのですから、その主を信じ抜けばよいのです。幼子が親に求めるように、主が与えてくれると信じて、素直に求めればよいのです。しかし神様を信じ切れない弱い私達です。主はそうと知るから「天におられるあなた方の父は、ご自分に求める者たちに、良い物を与えて下さらないことがあるでしょうか」と私達を諭します。信じて求めましょう。信じることは誰にでもできます。信じて求めるなら、神様は喜んで必要なものを私達に与えてくれます。神様のその恵みを知ると、私達は強くなれます。

 確かに弱い私達です。強くなりましょう。変わりましょう。弱いこと自体は悪いことではないのですが、問題は弱いままだと、悪魔の策略に負けてしまうのです。私達は悪魔に対抗して立つ為に、強くならなければなりません。

 悪魔は、私を主から引き離そうとしたり、主の存在に気付かせないようにします。悪魔は私達より強い力の持ち主です。悪魔以上強くならないと、悪魔の誘惑に簡単に負けてしまいます。悪魔に立ち向かう為に「神の武具を身に着け」ましょう。悪魔は、私達が自分の現実にだけ目が向くようにし、将来や相手や自分自身に幻滅するようし向けます。ですから、神の武具で身を固めて、悪魔の誘惑をはねのけ、力強く生きましょう。主がその私達を助けてくれます。パウロは更に「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火をすべてを消すことができます。救いの兜をかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」と言います。

 私達は、どんな時にも御霊によって祈りましょう。その為に目を覚ましていて、忍耐の限りを尽くして祈り続けましょう。私達が、主に寄り頼み、主の偉大な力によって強くなりたいと願い求めるなら、主は私達を助け、福音を宣べ伝える時、語るべき言葉を示し、主の証人としての務めを果たさせて下さいます。この一年。主を信じ抜き、主と共に力強く歩み続けましょう。