メッセージ(大谷孝志師)
主は良い羊飼い
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年1月14日
ヨハネ10:7-18「主は良い羊飼い」

 「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのために命を捨てます。」とあるように、主イエス様は、主を信じる私達をご自分のものである羊として助け導き、ご自分の命を捨ててまでして守って下さる方です。そして主は「わたしが来たのは、羊が命を得るため、それも豊かに得るためです」と言いました。これを誰に言ったのかというと、9:40の「パリサイ人の中でイエスと共にいた人たち」です。彼らは主に「わたしはさばきのために世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が見えない者となるためです」と言われて、「私たちも盲目なのですか」と聞き返しました。すると彼らに「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、「私たちは見える」と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります」と言いました。その彼らに主を信じる者達を羊達に、良い牧者を主に、雇い人達を古い教えによって人々を教えているパリサイ人達に例えて、今彼らと共にいるご自分が、人々に何を与える為に世に来て、ここにいるのかを教えたのが今日の御言葉なのです。

 イエス様は7節で「わたしは羊たちの門です」と言いました。ここで私は、マタイ7:13の「いのちに至る門」を思い出しました。主が世に来られたのは、目に見えないけれども私達のただ中にある神の国に、私達が入る為の門となる為なのです。ですから、パウロが使徒16:30で看守に言ったように、主イエス様を信じるなら、主イエス様という門を通って神の国に入るなら、詩篇23:1-3にあるように、緑の牧場に伏させ、憩いの汀に伴われて、魂を生き返えらせて頂き、義の道に導かれます。私達も私達の家族も救われるからです。

 このパリサイ人達は「私たちも盲目なのでしょうか」と主に言ったように、神様について何も分かっていなかったので、マタイ15:14で主が言うように、自分達が「盲人を内をする盲人」だとは思っても見ないのです。彼らだけではありません。福音書を読むと、主と寝食を共にして主に従っている弟子達も同じと分かります。今、礼拝している私達も、同じような者と気付かなければなりません。主イエス様を信じるとは、自分は主の羊、主の所有物と自覚することなのです。主は「だでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい(マルコ8:14)」と言います。

 主イエス様が主の羊である私の羊飼いで、悪い者から守り、義の道に導き、恵みと平安を豊かに与えて下さるのです。これ程素晴らしいことはありません。でもそれが「自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う」ことによることだと、どれだけの重さを持って受け止めているかと自分を顧みましょう。

 受けることと与えることのどちらが良いかを悩むことがあります。受けることは自分のものが増えることなのですが、世間で「ただより高いものは無い」と言うように、後の事を考え、受けて良いものかどうか迷うことがあります。与える場合も自分のものが減ることも大きな問題ですが、それにより、相手に負担を掛けるとにならないか、「余計なお節介に」ならないかと躊躇することがあります。でも、主イエス様の場合は、無条件、無償の愛なのです。ただ一方的に、主の方から私達の為に、主にとっても一番大事な筈の「いのち」を捨てて下さったのです。私達が相手から受ける、相手に与える時に、悩んだり躊躇したりするのは、相手の気持ちが分からないからするのです。私達が「自分を捨て、自分の十字架を負って主に従う」ことで、悩んだり躊躇したりするとすれば、十字架で示された主の無条件の愛、無償の愛が、それ程までに私達を心に掛けている主イエス様の心が分かっていないのです。主は「わたしは良い牧者、羊飼いです」と、今も私達に語り掛けています。先ずは、主の御声に気付き、耳を傾けましょう。主の思いを知りましょう。

 主が私達の良い羊飼いであるので、私達はこの世で主に守られ、生き生きと豊かに生きることができます。それが救われる、永遠のいのちを得るの意味です。もう一つの意味は、主を信じる者は世の終わりの時に、生きている者はそのまま霊の体に変えられ、死んでいる者も霊の体に復活して、来臨の主イエス・キリストと共に御国に永遠に生きる者となります。そうなるのは、主が私達の羊飼いで有り、私達一人一人を主が知り、私達一人一人が主を知っているからです。この主との人格関係を私達は与えられているからです。 しかしここで主は「羊たちのためにいのちを捨てます」を⒒節と15節で二度言います。これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んで死んだ十字架の死を意味しています。これは、詩篇22:1の言葉ですが、全ての人の罪を贖う為に、全ての人の身代わりとなって死ぬことの重く深い意味を私達知らせる主イエス様の心からの叫びです。

 主が今も私達の良い牧者である為に、今から二千年前に死んで下さったのです。しかし主は死んでこの世を去りました。しかし目には見えないけれど、今も私達の良い牧者として私達を守り導いています。生きて主は共にいます。18節に「だれもわたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」とあります。これは私達にとっても大切な事柄を教えています。主は私達に「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」言いました。主イエスを信じることは、主に従がって生きることであり、主に従いたければ自分を捨てることなのですが、そう言われても怖じ気づくことは全くないのです。自分を捨てることも、自分の十字架を負って生きることも、言葉だけを聴くと恐ろしく辛くなるのではと思うかもしれません。でも、主が「再びいのちを得るために自分のいのちを捨てる」と言ったように、私達も永遠のいのちを得て新しい人を着てこの世に生きる為に、古い自分のいのちを捨てるのです。そしてそれは、自分の十字架を負ってこの世に生きることでもあります。自分が貼り付けになる十字架です。これはローマの重罪人や政治犯の処刑方法で、一種の見せしめ刑で、高い木を使うので、重く、イエス様が刑場に引かれて行く途中、シモンという人に負わせたほど重い物です。十字架を負うことは肉体的にも精神的にも苦しみをこらえなければなりません。しかし主はそれを負わなければならなかったのです。私達全ての人の為に負ったのです。この事を思う時「良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」との主の言葉がどんなに重いものか」そして、主がそれを負わなければならなかった程、神様から離れ、滅びに向かって歩みながら、それに気付かないでいる人の罪が、どれほど大きなものであるかを知らされます。主イエス様が私達の良い羊飼いなので、私達はこの新しい年を希望を抱いて迎えることができています。

 しかし、今年は元旦に、能登半島で大きな地と津波、そして大火があり、2日には羽田空港で航空機衝突事故があり、3日にも北九州小倉で大火がありました。多くの方々がそれ迄の楽しい新年を迎えての生活が一変し、苦しみ喘いでおられます。私達は今安全だと思っていますが、いつ南海トラフ巨大地震によりこの生活が破壊されるかもしれません。主の「わたしにはまだ、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません」との御声に耳を傾けましょう。世の終わりがいつ来るのか、それも私達に分かりません。終わりの日の出来事はこの三が日以上の恐怖が全ての人に襲い掛かります。見えない神の国という囲いの中にいる私達は救われても、囲いの外にいる人達も「わたしの羊」と主は言います。家族友人も含め、世の人々も囲いの外にいても主の羊達なのです。主はその人達は「わたしの声に従います」と言います。主の言葉、主の教え、福音を自分達の声で伝えましょう。その人々もこの囲いの中に入ると主が言うのですから。