メッセージ(大谷孝志師)
喜んで与える人を愛する神
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2024年1月14日
Uコリント9:6-8「喜んで与える人を愛する神」 牧師 大谷 孝志

 30年ほど前、小学校のPTA会長として卒業式でお祝いの言葉を述べた。真新しい中学の制服を着た子供達に、その服に相応しい人になって欲しいとお願いした。制服を着ると急に気持ちが大きくなり、大人になったように思うかもしれないが、中身は変わっていないので、制服に相応しい人を目指す努力が必要なのですと。

 これはクリスチャンにも言えること。クリスチャンになることは、新しい人を着ること(エペソ4:24)。上辺だけでは駄目なので、その服に相応しい人、主イエスに相応しい人になる努力が必要。とは言え、毎日何分祈らなければとか、何頁聖書を読まなければという決まったことを努力しなければと言うのではない。聖書に「強いられてではなく、心で決めた通りにしなさい」とあるように、自発的に自由にするのがキリスト者の特徴の一つ。「喜んで与える人を」とあるが、与えると言うことは自分のものを人に与えること。自分のお金、時間、物を他の人の為に使うこと。しかし、人は自分のものに執着してしまう。しなければと思っても「自分だけがなんでこんな事を」とか「何でここ迄しなくてはならないのか」という思いになったり、「これをしないと人に何と思われるか分からない」と与える相手ではなく、与える自分を見ている人を気にして惜しむ心でする時もある。

 だからパウロは「神は、喜んで与える人を愛してくださる」と教える。この素晴らしい御言葉を心に留めていることが大切。何事をするにしても。惜しむ心や強いられた心からでは、喜びは生まれてこない。喜んで与えるその喜びが自分の心にあるから、その喜びが相手に伝わり、相手の心に喜びが生まれる。

 朝の聖日礼拝でも話したが、クリスチャンの生き方の模範は主イエス様。主は喜んで人に与え、十字架に掛かって喜んでご自分のいのちを全ての人に与えた。私達もそう生きたいとは願い、日々の生活の中でそれを心掛けているのは事実。しかしそうは思っても、イエス様のように生きるのはとても難しい。努力はしても、人間、努力すればできるというものではない。今の世界を見ても、クリスチャンなのに、聖書の神様を信じているのに、戦争を引き起こしている国の指導者や戦争で人を殺せと兵士に命じた従軍牧師もいた。しかし、徹底的に全てを投げ出して相手に与え尽くした人生を全うしたクリスチャンがいた事も事実。何故できたのだろうか。神がその人達に、自分だけが頑張っているのではない、周囲の人が自分のできる範囲で、一緒に懸命にしていると感じ取れる豊かな心を神がその人に与えていたからだと思う。人間だから時に与えることに空しさを感じることはあったと思う。しかし神様はその思いを超えさせて、相手に与える心を与えていた。

 神様は私達人間が物質的経済的にではなく、心豊かな生活の中で、互いに愛し合い、助け合い、皆が満ち足りた思いで生きられることを望む。心の豊かさは与えることによって生まれる。与えるとなくなると思うから、仕方がないと思うから、惜しむ心や不安が心に生まれる。必要なものは全て神様が与えると信じよう。ただの小麦粉を、信頼する医者がこれを飲めば胃潰瘍が治ると言われ、信じて飲んだら治ったという話がある。人間だけに起きるプラセボ効果。御言葉が偽者というのではない。私達にとっても信じることは、心だけでなく、具体的に体も変える力が有る。私達には信じるという素晴らしい力が与えられている。神様が必要なら与える素晴らしい方と信じよう。互いに信じ合おう。神様は豊かな人生を築けるようにと、私達一人一人を大切にして見守り、支えていて下さる方だから。