メッセージ(大谷孝志師)
行いが伴う信仰者に
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年1月21日
ヤコブ2:14-26「行いが伴う信仰者に」

 アドベントの期間があったのでお休みしていましたが、第3週はヤコブの手紙を学んでいました。しかし今年の受難節、四旬節とも呼ぶのは、復活祭前の聖日を除く40日間が、主の十字架の意味を心に刻む期間だからです。それが2月14日から始まり、18日が受難節第一聖日、3月も受難節の説教になるので、ヤコブの手紙の学びは、2月3月と休み、5月はペンテコステ礼拝、聖霊降臨記念日の礼拝になるので休みになり、4月と6月以降になります。

 今日は、先程お読み頂いた御言葉を通して私達の信仰について学びます。ヤコブは「誰かが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか」と言います。私達の信仰は自分固有のものであり、他人がそれが正しいかどうかを判断できません。その人にしか判断できないものです。とは言え、私達は主に喜ばれる者として生きる為に、死後、或いは世の終わりに、御国で永遠に主と共に生きる者である為には、正しい信仰の持ち主である必要があります。ですから彼は、自分の信仰が思い込みの信仰に過ぎないのか、真の信仰であるのかを、自分で吟味するように読者に問い掛けているのです。

 自分はキリスト者であると自覚している人は、誰でも信仰を持っていると思っていると思います。「あなたは主イエスを信じていますか」と聞かれ、「私は信じていません」と答えるキリスト者は誰もいません。信じていないのであれば、キリスト者をやめているからです。しかし「あなたは本当に信じていますか」と聞かれたらどうでしょう。私を含めて「本当に信じています」と言い切ることが出来ない自分を感じてしまうキリスト者は、意外に多いのではないでしょうか。もし、そのように本音と建て前が違うとしたら、その言い切れないその人の信仰は本物でしょうか。立ち止まって考えてみることが大切だと思います。もちろん、本物かどうかは人には判断できません。でも、自分が心から主イエスを信じていると思えないキリスト者が、未信者の人と話していて、相手が、自分も主イエス様を信じたいと思うでしょうか。しかし、ヤコブはここで、キリスト者に対したそんな信仰でいたら、証にならないでしょうと責めたり、非難しようとしているのではありません。

 ヤコブはイエス様を、教会の人々を、そして世の人々を愛しているのです。ですからヤコブは、この世が主の御心にかなう世界になり、互いに愛し合い、助け合う世界になれるように「心から主イエスを信じています」と自分が言い表されるキリスト者になって欲しいと願い、この手紙を書いているのです。

 彼は前回の箇所でも、人を自分の価値基準や外見で判断してはいけないと言いました。キリスト者が従うべき御言葉は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」であり「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31,32)」との御言葉であり、主が私達を愛したように、私達も互いに愛し合うことなのです。これを別の言葉に言い換えたのが、ルカ6:36の「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」なのです。相手を憐れむとは、上から目線で相手に与えるのではありません。大切なのは、相手の為に、相手の立場に立ってすることです。

 私達は、相手に言葉を掛けるだけで自己満足をしてしまうことがあります。自分は相手にこれだけの事を言って上げたから、後はその人の責任と考えてしまうのです。確かに、人が人を変えることは出来ません。相手がその気にならなければ、自分は変われないからです。相手の主体性に配慮することは大切です。しかしそこに自己防衛の気持ちが微塵もあってはいけないのです。相手を尊重するように見えても、相手を突き放してしまっては駄目なのです。

 本物の信仰は「自分の事は自分でしなさい」と相手を突き放すことではありません。相手を受け入れ、相手に必要なものを与えることなのだとヤコブはここで教えています。正しい信仰の持ち主とは、相手との関係において、自己犠牲を恐れず、相手に仕える者であるとこの箇所を通して教えられます。信仰とは、実践の中で現され、実践の中でこそ生きたものになるのです。もちろん彼は、その人が私は主を信じていると言っても、その信仰に相応しい行いが伴わなければ、その人は救われない、と言うのではありません。正しい信仰の持ち主なら、その人の生き方は、イエス様のような生き方になります。イエス様を信じているなら、イエス様がその人に、ご自分と同じ生き方をさせて下さると信じているのです。ですから彼は、その言えるのです。

 彼は、人が自分の力でこのような信仰で相手に仕え、相手に与えることは不可能と知っています。誰にでも自分の生活があるし、人が困っているのを見ても、その人を助けるのは自分だけの責任だろうかと考えるからです。キリスト者も人間で、限界があります。相手の困難状況が続いている間、自分が助けるとしたら、自分が駄目になってしまうし、自分には無理だと思って、相手を放り出したら、相手も駄目になってしまうと考えるからです。そこで、そんな中途半端な事をするならしない方が良いと考えたとしたなら、どんなにそれしか方法がないと考えたとしても、その考えには、主イエスが自分と共にいるとの信仰にはなっていないと気付くべきと、彼は教えているのです。

ヤコブにとって、信仰と行いは切り離せない関係にあります。彼は「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは信仰は死んだものです」と、その信仰は本物の信仰ではない、行いの無い信仰は無益とまで言います。なぜなら彼は、行いを自分の信仰を吟味させる大切な手段の一つと捉えているからです。神はただ信じるだけの信仰ではなく、行いが伴う信仰を求めるからです。彼は読者に「あなたは神は唯一だと信じてます。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」と皮肉たっぷりに言います。

 この手紙で、読者が自分は正しい信仰者であるかどうかは、主イエスが自分にとってどんな方で、どのような事を自分に命じている方として信じて行動しているかどうかによって明らかになると教えているのです。ですから、信仰が行いに結びついている例としてアブラハムとラハブを挙げて教えます。

 アブラハムは、愛する独り子イサクを祭壇に献げた行いによって神に義と認められました。「信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました」と彼は言います。このアブラハムの例から「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう」と言います。次のラハブはヨシュア記2章に登場するエリコの町にいた神を信じる遊女でした。マタイ1章のイエス・キリストの系図に、ダビデの高祖母としてその名が挙げられています。彼女は、イスラエルの民が40年の荒野の放浪を終え、エリコ攻略を神に命じられた時に、ヨシュアがこの町の偵察のために遣わした二人の兵士を家に匿い、エリコ王の手から守り、無事脱出させた女性です。

 二人のように、それをすれば、自分の大切なものを失ったり、自分が大きな危険に遭わなければならないとしても、それを神に命じられたら、それを御心として受け入れ、不安や恐れに囚われ躊躇するのでなく、実行するのが信仰と彼は教えます。彼は最後に「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです」と言います。

 ヨハネも「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか(第一3:17)」と教えます。この一年、私達はヤコブが教える「行いが伴う信仰の持ち主」となり、主イエスが求める信仰者として、主の模範に倣う愛の人としてこの世に生きる者となりましょう。