メッセージ(大谷孝志師)
一番大切のものを大切に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2024年1月21日
ピリピ 3:7-9「一番大切のものを大切に」 牧師 大谷 孝志

 一番大切なものは何かと聞かれ、いのちと答える人が多いと思う。でも、ただ生きているだけでは仕方がない、お金が一番大事と答える人、いや、お金があっても生き甲斐がなければ駄目と言う人もいる。一番大事なものは人生のそれぞれの時期によって変わる、私は、子供の頃はメンコやガラス玉がとても大事。

 小学生後半から中学生までは良い成績を取ることが大事、遊びや友達より成績の方が大事になった。高校に入ると成績が良いのに越したことはないが、それが人生の全てではないと考えるようになった。少し人生に冷め掛かっていた時、クリスチャンという不思議な人間の集団に出会った。それ迄は自分にとって有用かどうか、損か得かで人間関係を決めていた。しかし教会の人達はそういう常識とは懸け離れた価値観を持っていた。勿論人間の集団であり、後に中に入ってからは泥々したものが有ったことは事実。しかし外から見ていた時は、彼らは、自分のととよりも、大谷孝志という人間に限らず、誰それという相手をごく自然に大事にする集団に見えた。これ迄の価値観とは違う価値観があることを肌で感じ取った。少なくとも外から入ってきた私にはそう見えた。これは大事な事だと思う。 クリスチャンでも人間である以上、自分は大事という価値観を持つ。どもそれを覆い隠せると言ったら悪いかもしれないが、それが事実。彼らが二重人格というのではない。人が生まれながらに持つ価値観を、主イエス様から与えられた価値観で覆うことができている。そして相手を大事にしている思いをそのまま相手に伝えている。自分よりも相手を大事にするという価値観に変わっていなければできることではない。教会に来てこの素晴らしさに触れ、私は驚いてしまった。

 パウロは復活の主イエスと出会い、大きな価値観の転換を経験した。今日の聖書にあるように、彼はそれ迄自分が大事にし、誇りにしてきた全てを損じると思い、ちりあくたと考えた。主を知ることは彼にとってそのれほそ素晴らしいこと。主の前にいる自分には全てのものが霞んで見えたのだろう。人が何かを大事にしらり、誇りに思う場合、自分の弱さを覆うための場合が有るのでは。弱さを隠すための強さ、劣等意識を隠すための誇りという場合もあるのでは。では何故、彼はこれ迄誇りとしたもの、得と考えていたものが不要になったのか。彼が主の前では自分が裸であると知ったから。彼にとって主に知られていることは絶対的なものだったので、自分の弱さを隠す必要や誇りがもはや不必要になったから。

 彼は「誇る者は主を誇れ(Tコリ1:31)」と言うが、私達はどれだけ主を誇っているか。また、福音を恥としていないと言い切れるか。確かに、私達は主を信じているし、しかも喜んで信じている。だから安心して生きている。しかしパウロのように、主の御前にいる自分をどれだけ意識しているか反省させられた。現実に、日々生きる為には、衣食住の様々なものが必要。一人で生きているのではないので、様々な人間関係中で自分が生きる為の情報処理能力、物事を判断する知恵と力が必要。しかし、悪はその思いを利用し、主から目を反らせようと機会を伺う。確かにそれが有って生きられるが、それらが無ければ無ければ生きられないのではない。主は「必要なことは一つだけです(ルカ10:42)」と言う。これが主が求める私達の価値観。私達が持つべき唯一の価値基準。これを基準にして生きるなら、必要と思うもの全ての中で、何が一番大切かを知り、それを大切にして人に接し、人と共に生きられる。「その道を歩め」と言う主と共に生きていこう。