メッセージ(大谷孝志師)
ただ神を、主を信じよ
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年1月28日
伝道者5:1-20「ただ神を、主を信じよ」

 私達は今、神を礼拝しています。今日の箇所は、礼拝とは何をすることなのかを私達に考えさせています。先ず伝道者は「神の宮に行くときは、自分の足に気を付けよ」と言います。礼拝する者は誰の前にいるのかを知らなければなりません。神の前に出る為に私達はここに来たのです。神の御前にいる自分を意識しましょう。私達は神の近くに来て、神の言葉を聞こうとしています。これは、愚かな者たちが生け贄を献げるのにまさると彼は言います。私達は献金をします。献金は御業が行われる為、教会の活動が十分に行える為の資金になります。しかし彼は、それを献げる私達の姿勢が問題だと言います。愚かな者達は、罪を犯すのを止められない人です。そして献金をしたから、自分は神に愛され、祝福されていると安心し、自分の罪を認めようとしない人のことです、私達も一週間の歩みの中で罪を犯さなかったと言える人はいないと思います。私自身もそうです。ですから、罪人の私をお赦し下さいと、罪を悔い改めて、自分を神に献げる思いで献金するのでなければ、その献金には全く意味も価値も無く、自己欺瞞ですら有ると彼は言います。

 私達は神の言葉を聞く為に礼拝に来ているのです。私が準備した説教を、私という人間の言葉を聞きますが、私の話を聞きに来たのではありません。神がこの礼拝の時を用いて、自分達に語り掛けている御声を聴き、みこころを知る為に来たのです。しっかりと神、主イエスに心を向けていましょう。

 この伝道者が「神の前では、軽々しく言葉を出すな」と言うのは何故でしょうか。この時代の人々と現代に生きる私達とでは、神との関係が全くと言って良いほど違います。当時の人々にとって神は身近な存在で、生活に密着していたようです。テレビで時代劇を見ても、神社の前でお百度を踏むシーンが時々出てきます。主イエスが、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従いなさいと言いましたが、時代劇の中の人達は決して軽々しく願って口に出しているのではなく、自分が信じている神に全てを投げ出して信じ、神が自分の願いを叶えるよう願っています。伝道者は「神は天におられ、あなたは地にいるからだ」と言いますが、これも私達がしっかりと弁えていなければならないことです。神は私達の悩みの相談相手ではありません。天におられる方なのです。万物の創造者であり、どんな事とでもできる方、正に住む世界が絶対的に違う方なのです。そしてその神が、私達の父なる神なのです。私達を愛し、悪いものから私達を守って下さいます。ですから言葉に頼らずに、よく考え、言葉を吟味して神に語り掛けることが大切です。神は私達の言葉を聴いていると、心から信じて神に祈り求めれば良いと教えられます。

 祈り求めるということは、自分に為すべき事があり、その事をどうしたら一番良いかを考えているからです。その時、自分の願望だけを心に描き、様々な可能性を考えているだけでは駄目なのです。それではこの世という自分の世界に閉じ籠もっているからです。ですから霊の目を開いて見ましょう。私達は主イエス様と共に生き、父なる神が全てを支配している神の国に生きていると分かります。これはお花畑で小鳥がさえずる桃源郷のような国ではありません。心から安心して神、イエス様と語り掛けられる世界なのです。

 しかし残念ながら、私達は直ぐにその信仰の世界から、自分の心の中の世界、この世の常識の世界に引き戻されてしまいます。ガリラヤ湖で水の上を歩いたペテロのことを思い出しましょう。主に舟に乗り込まさせられ、向こう岸に向かわせられた弟子達は。強風に悩まされ、漕ぎあぐんでいました。その彼らの所に主が波の上を歩いて来ました。世の常識を越えた出来事です。彼らは幽霊だと言って怯え、恐ろしさの余り叫びました。しかし主が彼らに「私だ恐れることはない」と言うと、ペテロは「主よ、あなたでしたら、私に命じて命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせて下さい」と言います。彼は主が自分に命じるなら、自分でも水の上を歩けると信じたのです。彼は水の上を歩いて来た主が支配する世界に自分達はいると信じたのです。「自分は神が御手をもって全てを行う世界にいる」。これが信仰の世界に生きるということなのです。彼は主に「来なさいと」言われて、水の上を主りる向かって歩き出します。彼は信仰の世界に生きているから、現実に水の上を歩けたのです。私達も主イエスを信じています。主を信じることは「それは人には出来ない事です。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです」と主が言う世界に自ぶうが生きていると信じることです。しかしこの信じるということは、とても難しいことなのです。病気の癒し、困難な状況からの脱出を主に祈り願います。主の愛と力を信じるからです。しかし、マルコ9章の悪霊に憑かれた息子の父は「おできになるなら、私たちを憐れんでお助け下さい」と言いました。彼は息子を主に癒して戴けると信じて弟子達の所に来たのです。しかし弟子達が癒せなかったのを見て、イエス様にも無理かもしれないと思い「おできになるなら」と言ってしまったのです。ペテロもそうです。強風を見て怖くなり、沈み掛けました。強風を見た彼は、主に向かって歩いたのに、主から目を離したのです。その時、彼は信仰の世界、神の国からこの世という現実世界に落ち、沈んでしまったのです。ここに、弱い私達が信仰の世界、見えない神の国に留まる秘訣が示されています。

 「人にはできないこと」だと主は言います。主を信じ救われた者は神の国に生きているのですが、それを無条件で信じるのは、確かに人にはできないことなのです。しかし、人にもできる方法があります。神にはどんなことでもできると信じればよいのです。ヘブル11:1に「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と教えられている通りです。神は人にその信仰の力を与えているのです。それを信じれば救われます。神に恵みと平安を与えられ、神の国に生きている、自分は十字架と復活の主と共に生きていると実感できるからです。しかし悪の力はその私達を常に現実の世界、この世の常識の世界に引き戻そうとします。ですから私達は、ヘブル11:1の御言葉に立ち、信仰とは何かを思い起こしましょう。主イエスを信じる世界に生きて、様々な恵みを頂いたことを思い起こしましょう。そしてあの父親のように「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と主に叫びましょう。主は「あなたは神の国にいるよ」と教えてくれます。世の常識では考えられないことですが、主を信じることは、そう主に叫び、主の懐に抱き抱えられることなのです。人知を遙かに超えた世界に私達は生きています。この世の雑念を抱かせる悪の誘惑を断ち切り、ただ神を、主を信じましょう。