メッセージ(大谷孝志師)
福音に仕えた人々
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年2月4日
エペソ 3:1-13「福音に仕えた人々」

 日本バプテスト同盟は、2月の第一日曜日をバプテスト・デーと定めています。私達も今日を「バプテスト・デー」として聖日礼拝を守っています。何故、この日に定めたかというと、1873(明治6)年2月7日、アメリカ北部バプテスト伝道協会から派遣されたネイサン・ブラウン、ジョナサン・ゴーブル両夫妻が、この日に横浜に到着したからです。江戸幕府は世界史に例を見ない程厳しくキリスト教を禁止し、隠れ切支丹の探索、発見や踏み絵などを用いての棄教を徹底して行いました。しかし、幕末に二つの港が開かれると居留地にいる外国人の信教の自由を認め、宣教師の来日と活動を許し、横浜天主堂が1862年に、大浦天主堂が1864年に建設されました。1868年に誕生した明治政府は、初めは江戸幕府の切支丹厳禁政策を継承していました。ですから、日本人への宣教は認められず、発見された隠れ切支丹への迫害も行ったのです。しかし、それが諸外国の反発を招き、キリスト教禁令の高札が廃止させられたのが、両師が来日した直後の2月24日でした。両師により。次の聖日、3月2日に現在の横浜バプテスト教会の前身である横浜第一バプテスト教会を設立されました。しかしキリスト教厳禁を解いても、約25年間、明治政府はキリスト教を公認しなかったのです。それでも多くの宣教師が、来日し、宣教しています。欧米の諸教会の人々は、アジアの人々の救いの為に熱心に祈り、献金し、初めに宣べたアメリカ北部バプテスト伝道協会のように、伝道の為の組織を作り活動し、多くの宣教師を送ってきたのです。彼らは、日本は仏教や神道が日本社会に深く浸透し、それらが根強い力を持つ異教徒の世界なので、その日本の人々に真の神様を知らせたいと思ったからです。

 当時の日本はと言うと、福沢諭吉が「キリスト教国教論」を唱えるなど、未公認でも上流階級の多くの人々が教会に来てはいました。しかし、地方ではキリスト教は外国の宗教として、人々の反感が依然として根強かったのですが、そのような困難な状況の中だからこそと、多くの宣教師が、異教徒に福音を伝え、一人でも多くの人が主の救いに与れるようにと働き続けました。

 さて今日の個所でパウロは3:1で「あなた方異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」と言います。彼は6:20にあるように、投獄され、鎖に繋がれています。確かにローマの囚人でです。しかし彼は、自分はそうではない、主にある囚人であり、キリスト・イエスの囚人ですと言います。日本に来た多くの宣教師の方々も、日本に行って異教の神々を信じる日本人に福音を伝えよとイエス様に命じられ、それに応え、全てを投げ打って日本に来た主の囚人なのです。私は6日に尾道刑務支所に集合教誨でお話をする為に行きます。受刑者は囚人です。囚人には自由はありません。命じられた場所で、命じられた事をしなければなりません。説教をしていても、外の廊下を受刑者の人々が他の場所に向かう為に行進をすることがあります。刑務官が大声で彼らに命じ、彼らは従います。規律第一だからです。宣教師の方々も、主に命じられ、日本に来て人々に福音を宣べ伝えました。自分の意のままにではなく、主の御心のままに生きる「主の囚人」となったのです。

 日本に来た宣教師の方がもそうでしたが、パウロの伝道も困難を極めました。この手紙を含め、ピリピ、コロサイ、ピエレモンの手紙を獄中で書いています。しかし彼は獄中にいるからこそ13節で「私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することがないようにお願いします」と言います。パウロは、自分が牢獄に入れられるという苦難を受けているのは、主キリスト・イエスの囚人とされて彼らに福音伝えたからと知っているからです。

 異教徒だったエフェソ教会の異邦人が救われて、教会の一員となり、神に喜ばれる生活をする為に、自分が今苦労しているのは確かです。Ⅱコリント11:23-27にあるように、彼は多くの苦難を受けて、福音を宣べ伝え続けました。しかし、彼はそれらの労苦を苦労だと思ってはいません。逆に喜びなのです。彼にとってもそうですが、宣教は苦労のし甲斐のある働きになるからです。
 来日した宣教師の方々の働きも大きな困難を伴っていました。私も若い頃、ィエレサンド師、プロップ師、ウルムステッド師と交わりの機会を持たせて戴きました。先生方もご苦労は多かったと思います。しかし、生き生きとしていました。情熱のようなものを感じさせられました。宣教師の先生方から私は豊かなものをたくさん頂いたと思っています。母が私をキリスト教に触れさせたのも、西ドイツのキュックリッヒ宣教師の教えがあったからでした。

 宣教師の方々は何故そのような働きができたのでしょ。彼らは日本に住む人々がこのまま滅びの道を歩むままにしておけなかったからです。誰でも「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者となる」と彼らは知っていたからです。その主の恵みを知り、自分達と同じように救われて欲しいと真剣に願ったからです。主が「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる(2ペトロ3:9)」との御心を御言葉を通して知らされていたので、主が世を滅ぼす日が来る前に、一人でも多くの人に福音を伝えようと、困難に立ち向かったのです。主は多くの信徒、伝道者を起こし、都市や町村に、多くの教会を建て、豊かな実を日本で結ばせました。

 パウロは偶像を崇拝し、真の神がいるのを知らない異教徒に「あなた方も主イエスを信じれば、神の民、キリストの体の一部となれます」と福音を伝えました。彼は、それができたのは「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者に」なったからできたのですと言います。福音は、仕える者を、奉仕者を必要とすると彼は言います。言い換えれば、福音を実践する人、福音に相応しい生活を送る人が必要なのです。更に言い換えるなら、主イエスのように生活する人の姿によって、福音が相手に伝わり、主イエスを信じて生きる決心へと相手が導かれるのです。

 日本は最初のプロテスタント教会が1873年にできて150年も経つのに、キリスト者人口は2%前後の異教社会のままです。第二次世界大戦後、1950,60年代に、多くの青年壮年の男女が教会に来て、多くの人々が救われました。しかし、70年代に全国の大学に起きた学園闘争の波が教会闘争という形で教会に起こり、日本基督教団などの総会が大荒れに荒れたりして、多くの青年、壮年が教会を去って行きました。日本の多くの教会はそれに加えて、教会員の高齢化により体力が衰えてつつあるのが避けられない現実になっています。

 バプテスト・デーのこの日、日本という異教社会に来て、人々に福音を伝えた多くの宣教師の方々の働きを改めて心に刻みましょう。私達は教会に来て、主イエスを信じ、救われているのです。私達は恵みを与えられているのです。それは「キリストのはかししれない冨を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにする為です。」とパウロは言います。彼は更に「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近付くことができます」と言います。私達にも福音を伝えられます。でも壁は高く大きいので、できないと思ってしまいます。しかし宣教師の方々は、もっと大きく高い壁を乗り越えて日本に来て、福音を伝えました。私達も乗り越えましょう。福音を伝えましょう。