メッセージ(大谷孝志師)
主を主として信じる者に
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年2月11日
ヨハネ11:1-27「主を主として信じる者に」

 14日から3月30日まで教会暦では受難節・レントに入ります。主イエスの十字架の死を心に刻む大切な時です。また今月の25日は召天者記念礼拝でもあります。今日はラザロに起きた出来事を通して、人の生と死についての御言葉を共に学びます。主は、会堂司ヤイロの娘とナインの町のある母親の一人息子も生き返らせました。この二人の場合は死んで間もないので、仮死状態とも取れます。しかしラザロの場合は、死後四日間墓の中にいました。ですから、神の力による死者の中からの復活の出来事であるのは明らかでした。

 ラザロはベタヤニヤに住む、マルタとマリアの兄弟です。2節に「このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足を拭った」とありますが、これはこの後の12章に記されている出来事です。他のマリアと混同しないように記者ヨハネが彼女のエピソードを記したと思われます。彼女達はイエスの所に使いを送り、主が愛している者が病気と知らせました。主は彼がその病気で死ぬことを前もって知っていました。しかし「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのもの」ということも知っていたのです。ですからその後二日そこに留まります。9章で目の見えない人を癒した時も、盲目の原因は、この人に神のわざが現れる為ですと言ったのと同じです。主イエスは人として世に生きているので、神が御心を行い、神のわざが現れる時を待ちます。私達も、何をする時もこの事をまず第一にすべきと教えられます。

 「この病気は死で終わるものではない」との主の言葉はどういう意味でしょうか。病気は放っておけば死に結び付きます。更にその死が虚無、滅びに結び付くと、人は恐ろしさを感じてしまいます。主イエスは今日の箇所を通して、病気が死と滅びに直接結び付くものではないと教えているのです。それは、人の病気には、9章の場合と同様に、神の目的があるからです。病気に限らず、私達の人生に起きる事には全てに神の目的があると知りましょう。

 ラザロの場合の神の目的は何だったのでしょう。第一に主イエスが神の子としての栄光を受ける為であり、第二には弟子達が完全な死からの復活という驚くべき復活の奇跡の目撃者となる為なのです。それにより弟子達を始めとするこの出来事の目撃者が、神がどんな方かを知り、主イエスが復活した時に、それが神の力によるものであり、その力が主イエスを信じる者にも働き、自分達も復活できると確信し、希望を持って生きる者とする為でした。

 さて主が「もう一度ユダヤに行こう」と言うと、弟子達は心配します。彼らは人間的に考えるから、自分達が今、光の世界にいると分からないのです。「昼間は十二時間あるではないか」は、当たり前の事実を、ユーモアを交えて言った主の言葉です。昼間は光の世界、主が世の光として人々を照らしている世界を意味します。光の中を歩む限り、人には何の危険もありません。しかし弟子達は、主イエスと二年以上寝食を共にしているのに、この事を信じ切れずにいるのです。世の常識で主を判断しているからです。主を信じ切れないから、自分が主の光に照らされていると分からないのです。この事は、私達にも言えることです。悩んだり、失望したり、前途を悲観したりしているとき、自分が主イエスを信じ切れていないからこうしているのだと気付きましょう。人は闇の中を歩くと、躓く危険があると前進を躊躇してしまいます。彼らがユダヤ行きに不安を感じたのは、それが原因と主は教えています。

 主は彼らに「私たちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます」と言います。主が共にいる世界では、人の死は眠りで、主は起こすことができるのです。しかし彼らは主の真意を理解できずにいます。 すると主は、事実をはっきりと彼らに告げます。「ラザロは死にました。」と。そして「あなたがたが信じる為には、私がその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼の所に行きましょう」と言います。するとトマスが仲間の弟子達に「私達も行って、主と一緒に死のうではないか」と言います。彼は主が死のうとしていると考えたからです。しかし、私達は主と一緒に死のうと言えるでしょうか。ペテロは最後の晩餐の時に。主と一緒なら、死ぬ覚悟はできていると言いました。しかし主が捕らえられると大祭司の家の中庭まで着いて行ったものの、主の仲間だろうと問い詰められると、主を三度知らないと言いてしまったのです。死にたくないとの思いが先に立つのが、誰もが持つ人間の弱さだと言えます。しかしここでは、彼らは主と一緒にユダヤに行きます。全てを知る主の言葉に動かされたのです。私達もまず主を信じましょう。主は私達の為に既に善い計画を立てていて、ご自分に従うことを求めているのです。喜んで主の言葉に応え、従って行きましょう。私達も人間である限り、この世的判断を優先しがちです。しかし主を信じ、聖書の言葉を御言葉として聞くなら、私達も信仰的判断を下す事が出来ます。

 さてマルタは、やっと来た主に愚痴を言います。私達もそうですが、愚痴は相手を信じているから、愛しているから出てくるものです。そうでなければ非難や中傷になります。マルタは主を深く愛し、信じていました。それでも愚痴が出てしまったのです。主への期待が大きかっただけに。愛する兄弟ラザロが死んでしまい、思い通りにならなかったとの思いが強く出てしまったのです。私達も信仰生活の中で、同じ思いに囚われてしまう事があります。しかし、私達が先ず大事にしなければならないのは、私達が信じている主は、今の状況を必要に応じて変えることができる方だということです。主は私達の思いと願いに応える方ではなく、御心を行う方なのです。そして私達は、世の知識や知恵、自分の思いを超えて、ただ主イエスを信じ、主に従うことによって、神に喜ばれる人、主の群れとなって成長できると知りましょう。

 マルタも主を信じ、服従していました。でも、自分の信仰的確信に立ち、主が自分の求めを直接聞いて、神に求めてくれたら、ラザロは死なずに済んだと考えてしまったから、愚痴が出てしまったのです。勿論、主との数年にわたる関わりの中で、神は主イエスを通して人の常識を遙かに超えることをされると信じてはいました。でも彼女は、主の「あなたの兄弟はよみがえる」との言葉も自分流に判断し、「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」と答えます。彼女は世の終わりの日に霊の体に変えられ、永遠に主と共に生きるとは信じていても、目の前にいる死んだ兄弟がよみがえると主に言われても、信じられなったのです。しかし、主が求める信仰とは、人が生きている今の時に、御力をもって、自分の願いに応える方であると信じる信仰なのです。世の終わりのよみがえりも今よみがえるということも、同じ神の御心、御力による人知を超えた出来事だからです。

 マルタは主に「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われ、「はい、主よ。わたしは、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と答えます。しかし彼女が、主の言葉を正しく理解して答えたのではないと私は気付きました。私達は主に「主イエスを信じるなら、永遠に決して死ぬことはない」という恵みの真理を教えられています。私達はその主に「私が、今もあなたと共にいる十字架と復活の主キリストと信じますか」と問い掛けています。その御声に気付いたら、それが自己流の信仰を正し、福音の真理を悟らせる御心を知り、「主よ、私はあなたを主イエス・キリストと信じます」と答える者になりましょう。