メッセージ(大谷孝志師)
重荷を負い合える幸い
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2024年2月11日
ガラテヤ6:1-5「重荷を負い合える幸い」 牧師 大谷 孝志

 能登半島大地震で被災した人々の為に多くの方々がボランティアとして活動している。私は経験はないが、仕事を休むなど自分の生活を多分に犠牲にしなければならない。使命感だけではできないこと。被災に苦しむ人々の重荷を負う為にしている。重荷を負うとは他人事としないこと。知らん顔をせずに自分自身の事柄として受け止めたからこそ、人々はボランティアとして現地で奉仕している。何でもお金で解決する風潮が。学校の先生でも店員でもそれで給料を貰っているのだからこれくらいしても当たり前として来る人もいる。昔遺産相続争いで悲しく辛い思いをした教会員がいた。心の繋がりこそが社会で共に生きる上で大切と、相手の重荷を負って相手と関わっている人々の姿を見、改めて人情の温かみを感じさせられた。人は誰でも寂しい人生より、温かい豊かな人生を送りたいと思う。

 今回のように、自分の事を真剣に考えてくれる人が側にいると感じた人々の心が感謝で一杯になっている姿がテレビに映し出されていた。現実には、自分の事だけを考えて生きるのが精一杯の人は多いと思う。相手の事を自分の事のように考えて生きるのは大変なことだから。子供の頃に聞いた「とんとんとんからりと隣組」という歌の中に「助けられたり助けたり」という歌詞があった。昔は何かを相手にした時に「お互い様ですよ」という言葉がよく使われた。大変だがその大変さを余り感じないで生きられた時代だったのかも。しかし「余計なお節介」と受け取られ、親し過ぎて人間関係に溝ができる場合も。人間関係は微妙なものなので、「親しき仲にも礼儀あり」という言葉もあるように、親しさが傲慢にならないよう、自分の好意が相手を傷付けないように注意することも大切と弁えよう。

 パウロが今日の個所で「互いの思いを負い合いなさい」と言うのは、その前の「だれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心で正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気を付けなさい」ということを受けての言葉。しかし相手の過ちを正そうとしても、軽い気持ちで出来る人と凄いプレッシャーを感じてしまう人が。と言って、重荷を負うのを避け、それを放置することを主は喜ぶだろうか。彼は「互いの重荷を負い合いなさい。そすれば、キリストの律法を成就することになります」と教える。重荷を負うことは相手の為に自分が苦労すること。でもその時、自分が主に喜ばれる機会を主に与えられていると気付き、むしろ感謝しようと彼は言う。

 どんな人間関係にも縦と横の関係がある。しかし教会の人間関係は横だけ。重荷を負い合う時にはこの事が重要。賜物や役割の違いはあるが平等。しかし横の関係だけでは不十分。人は救われていても肉の欲望を満たす誘惑に駆られるから。相手と自分を比べて自分の方が偉いと思う危険性を持ち易いから。先ず、御前では皆平等と知ろう。そして自分と相手の真の姿を知ろう。その為には「御霊によって歩み、導かれている、霊の人」とされている自分を知り、自分の基準で自分と相手を図ろうとしないことが大切。主イエスならどうするかをと考え、主よさせ給えとの祈りをもって、自分を愛するように相手を愛し、相手を自分の重荷として受け止めよう。主は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷には軽い」という。その主が自分と共にいることを意識しよう。主との縦の関係が正しくなるなら、互いの横の関係も正しくなり、自分の言葉、思いが相手に正しく伝わり、主にある者同士として互いに信仰が成長し合える仲間となれる。