メッセージ(大谷孝志師)
全ての人の罪のために
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年2月18日
ルカ23:32-43「全ての人の罪のために」

 14日から3月30日迄教会暦で受難節、レントに入っています。主イエスの十字架を心に深く刻み、御言葉を通してその死の意味を知る大切な期間です。

 主は犯罪人の一人として十字架に付けられました。その時、主は先ず、父なる神に「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈ったのです。彼らとは誰のことでしょう。主を十字架に付けた兵士達でしょうか。側にいた彼らに向けた言葉なのは確かです。しかし主イエスを十字架に付けたのは、彼らだけではないと聖書は私達に語り掛けているのです。主が十字架に掛かって死ぬのは、彼らだけでなく、全ての人の罪を贖う為だからです。主はその全ての人々の為に祈ったのです。この時代の人々の為だけではありません。時代と所を超えて、私達を含め、世に生きる全ての人の為に、主はこの祈り、執り成しの祈りをしたのです。

 私は教会に来る前、イエスという存在は教科書で習って知ってはいました。でも、イエスが私の主であり、救い主だとは思っても見ませんでした。教会に行き始めた頃は、クリスチャンの先輩が処女降誕とか七日間で神が天地を創造した話を信じているのが不思議でたまらず、論争を仕掛けたこともありました。彼らがイエスを主キリストと信じていること、十字架に掛かって死んだけれど、三日目に復活したと信じていることは認めました。信じることは自由だと思うからです。でも、私には信じられませんでした。同じように、未信者の家族や友人達も、私達が今も生きて働いている主イエスを信じて生きていること、その事は否定しいないと思います。でも教会に誘っても、「あなたは信じているだろうが、自分には信じられない」と突き放されるだけです。
 しかし諦める必要は全くありません。私達自身がその証拠だからです。私達は教会の存在を知り、教会の人達と関わりを持ち続けて、その中でイエスを主キリストと信じ、救われているのです。私達が特別な才能の持ち主だったからではありません。周囲の人達と同じ、普通の人間です。しかしある時、イエスを主キリスト、私の救い主と信じられたのです。考え方、生き方が180度変わったのです。周囲の人と同じ人間の私達にその変化が起きたと言うことは、全ての人に主を信じて救われる可能性が有るのではないでしょうか。

 では何故その変化が起きたのでしょう。それは、主イエスが今も生きて働き、全ての人の為に、父なる神にこの34節の執り成しの祈りをしているからなのです。世の終わりの日が来るまで、主は私達の家族友人、知人が悔い改めに進むことを望んで待ち続けています。しかし、主が祈っているから、待っているから、私達に変化が起きたのではありません。もう一つの大切な出来事が起きたからです。それは気付きと応答という要素です。主イエスが本当に今も生きて自分と共にいると気付き、感謝と喜びが湧き上がり、主よ信じますと答えたのです。そして私達は、教会に来るまではとても信じられなかった、二千年前に十字架に掛かって死んだイエスが復活し、主キリスト、私の救い主と信じられ、主と共に生きる人生を今も歩み続けているのです。
 しかし、この主を民衆は立って眺めていただけですが、ユダヤの最高法院の議員達は「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」と嘲笑い、兵士達も「お前がユダヤ人の王なら、自分を救って見ろ」と嘲ったのです。今も世の人々は教会の私達を外から眺めるだけです。しかし、様々な災害や戦争が続く世の中に、イエスが救い主であるなら何故何もしないのか、本当はいないからだろうと見ています。この世の悲惨な状況が続く理由も目的も私達には分かりません。しかし私達は、それでも主が全ての人を愛し、恵みと平安を与える全ての人の救い主と信じ続け、その信仰に堅く立って世に生きていくことを忘れないようにしましょう。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人も「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言いました。私達もこれと同じような事を、心の中で呟いてしまうことが有ります。「主よ、あなたが私達の主であるなら、何故私をこのような状況に放っておくのですか。何故救い出して下さらないのですか」と。私達は主イエスをキリスト、神の御子と信じています。主に俺達を救えと言った犯罪人も、当時のユダヤ人の多くの人々がそうだったように、イエスがキリスト、神が世に遣わした救い主と呼んでいます。最高法院の議員というユダヤ教の指導者達も、イエスの言動にその事を否定しきれないものを感じていたから、十字架の主を見上げてそう呼んで、嘲笑ったのです。しかし、おまえがキリストとして神に遣わされてるのに、俺達は十字架に付けられる罪を犯して殺されそうになっている。何故信じて変われなかったのかという後悔の念が湧き上がり、今からでも救ってくれとの思いが、彼の言葉になったのだと思います。ユダヤ教の指導者達も、神が全世界の創造者、支配者であるのに、ご自分の民として選んだ我々をいつまでローマの圧政の下で苦しめられるままにしておくのか、お前が神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ、そして俺達をローマの支配から解放しろとの思いがあったのだと思います。この彼らは、主を信じている者の一つの面を露わにしているのです。私達は、祈っても祈っても事態が変わらない現実の中で、主を信じているので、いや、信じているからこそ、不平不満ではなく、ヨハネ⒒章のマルタのように、つい愚痴がでてしまうことがあります。

 この犯罪人の言葉は確かに嘲りの言葉です。しかし、主を信じて生きていても、この世の荒波の中で、信仰的に葛藤している私達のそのような思いと同じものが、この嘲りの言葉からは滲み出ていると、私は感じさせられています。すると、もう一人の犯罪人が彼をたしなめて「お前は神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか」と言います。主イエスを嘲った彼に、自分の事を棚に上げて主を非難するのは間違いだと言ったのです。

 私達も困難等、思い掛けない事態に直面した時、同じ様な思いに囚われてしまうことがあります。そうなった事には自分にも責任があり、「自業自得」でしかないとしても、つい自分の事は棚に上げて、相手を非難したり、責任を押し付けて、自分の立場を守ろうとしてしまうのです。私達の内にも有る人としてのこの弱さが、このもう一人の犯罪人の指摘によって明らかにされていきます。この犯罪人に、自分が犯した悪行の報いとして、十字架につけられていることを棚に上げ、主イエスを罵しるのは間違いと彼を諭したのです。

 彼は「俺たちは」と、自分達のこの状況を自分達が犯した罪の結果として素直に認めています。これは簡単に思うかもしれませんが、自分の過ちを素直に認めることはとも難しいことです。しかし、それが主イエスを信じて救われる道の第一歩と、彼の言葉を通して主は私達に教えているのです。

 次に彼は「だがこの方は、悪いことを何もしていない」そして「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と言います。彼は、主イエスが十字架に付けられているのは、ご自分が犯した罪の故ではないことを感じ取っていたのです。彼自身が何の罪で、ローマの処刑方法、政治犯や重大犯に行われた十字架に付けられたのかは分かりません。しかし私達が信じる神は、どのような罪を犯した者であったとしても、主イエスを信じ、主がどんな方であるかを口で言い表すなら、その人は救われ、天の御国に入れられ、主と共に永遠に生きる者となると聖書は私達に教えています。

 彼の「あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」との言葉には、主に救いを求める者の謙遜さが滲み出ています。救いはその人の信仰生活の結果ではなく、ただ主の恵み、主が与える賜物であることを心に刻みながら、十字架の主イエスを見上げつつ、この受難節を過ごしましょう。