メッセージ(大谷孝志師)
私の人生誰のもの
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2024年2月18
ルカ12:13-21「私の人生誰のもの」 牧師 大谷 孝志

 主イエスの話を聞いていた群衆の一人が突然。主イエスに遺産相続トラブルの解決を願い出た。昔も今と同じことがあったようだ。ユダヤでは、自分の相続分に納得できない感じた時には、尊敬する律法学者に相談して解決して貰った。主イエスが律法学者として尊敬されていたことが分かる。主はその依頼を拒否した。主が解決する力を持っていなかったからではない。彼がその財産を得たとしても、何の解決にならないことと、この人が財産があれば幸せと考えていることを見抜いたから。この事は彼だけでなく、その場にいた人々にも、共通して言えることだったので、人々に本当の生き方を教える為に、主は今日の個所の譬え話をした。

 考えてみると、この譬え話は非常に恐ろしい話。しかしこれは、私達に自分が生きているとはどういう事かを教えている大切な譬え話と言えるのではないか。

 「ある金持ちの畑が豊作であった」ということは、彼が不正な手段でその富を得たのではないこと、そして、富自体が悪ではないことを示している。しかし、彼は罪を犯していた。その罪とは、彼が豊作を神に感謝していないこと。つまり、彼の思いが、ただ作物だけに向けられ、自分の命の安全がその豊かな作物によって保たれると考えていたことにある。全てを整え、与えた神に心が向いていない。

 人は食べなければ死んでしまう。WFP(国連世界食糧計画)の統計報告では、毎日、飢えと貧困で25000人の人が死んでいるとある。しかし、人が死ぬのは飢えによってだけではない。病気、交通事故、災害、先日の能登半島大地震のように、思い掛けない時に死が人を襲う。人がいつ死ぬかは、誰にも分からない。ただ主イエスはこの譬え話で、人が生きているのは神がその人を生かしているからだ、神がその人に生きることを許しているからだと教える。しかし現実には、人は生きることに汲々としてしまう。そんな時、「花より団子」の心境になる。花は信仰、団子は生活の糧。安定した生活の為には、安定した収入が必要だと。仕事の為に礼拝を出席を犠牲に。安定した収入の為には、良い仕事、その為には良い学校、その為の勉強の為には礼拝出席も犠牲に。決して贅沢をする為ではないが、生きる為には礼拝出席を犠牲にするのも仕方がないと考える。しかし主イエスは、この譬え話で「あなたが大切にしている安定した生活とは何か」と問い掛けている。「あなたは人生を自分のものだと考えていないか」と。考えてみよう。人は誰も、思い通りの人生を歩むことはできない。苦労、挫折、自己や病気、そして死は突然やってくる。何故か。自分の人生は自分のものではないから。主のものだから。

 誰もが自分の人生を大事にしている。しかし大事にして幸せになれるなら、皆が幸せになっている筈。主は大事にする仕方を間違えるなと教える。自分の人生を大事に思うなら、神を大事にせよと教える。神に対して富むとはこの事の意。

 人は自分の心も体も思い通りには出来ない。したいと願う善は行わず、したくない悪を行うのが私達。自分の人生を大切に思うなら、先ず自分の弱さを認め、神に罪を悔い改めよう。大切なのは人や物をでなく、神を見上げ、神を自分の心の中心に置いて世で生活すること。人間関係、自分の努力、社会での評価や実績も大切。でも本当に大切にすべきは、必要な時に必要な物を私達に与え、養う神。

 私の人生は私のものではなく、神のものとしよう。主は31節で「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられる」と言う。自分の為に宝を積まず、天に宝を積んで、神に喜ばれる人になろう。