メッセージ(大谷孝志師)
死は人生の終わりではない
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年2月25日
ヨハネ11:28-46「死は人生の終わりではない」

 今日の礼拝はこの教会で主に天に召された方がを偲ぶ召天者記念礼拝です。1972年に召された熊野マサ姉から2022年に求道中のまま召された松本法子姉までの写真を飾り、その方々の主にある歩みを想いつつ、御言葉を学びます。

 今日の個所は先々週に学んだエリサレムに近い町ベタニヤに住むマルタとマリアとその兄弟ラザロに起きた出来事です。2節に「マリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足を拭った」とあり、3節に「姉妹たちは、イエスの所に使いを送って言った『主よ、ご覧下さい。あなたが愛しておられる者が病気です」と言ったように、彼らは主ととても親しい関係にありました。

 彼女達が使いを出して知らせる程でしたから、彼の病気は深刻な状態だったったと思われます。しかし主は「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光の為です。それによって神の子が栄光を受けることになります」と言い、知らせを受けた場所に2日もとどまりました。そして主がラザロの所に来たのは、彼が墓に入れられてから四日も経ってからでした。主が洞穴の墓の前に来て、墓を塞いでいた石を取り除けなさいとマルタに言うと、彼女は「主よ、臭くなっています、もう四日になりますから」と言いました。主は彼女に「私はよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。あなたは、このことを信じますか」と言われ「はい、主よ、私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と答えたのです。主は彼女に、臭くなってはいません。ラザロは生きているのですから、安心して、墓を塞いでいる石を取りのけなさい」と言ったのですが、主の言葉をこの世の常識という自分の思いで解釈し、自己流の信仰にとどまっていたから「主よ、臭くなっています」と答えたのです。私達も同じ様な間違いを犯していないかどうか、自分の信仰を吟味し直しましょう。

 この教会の今年度の主題聖句は「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願をかなえて下さる。あなたの道を主にゆだねよ主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」です。私達はこのみ言葉を無条件に信じているでしょうか。「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」この言葉を自己流に解釈して、「私は願っているけれども、御心は違うかも知れません。御心を行って下さい。たとえどのような事になっても私は御心として受け入れますから」と主に祈っていないでしょうか。しかしヨハネ14:13で主は言われます。「わたしはあなたがたが私の名によって求める事は、何でも、それをして上げます。父が子によって栄光をお受けになるためです。」これが私達主を信じる者に与えられている良い知らせ、福音です。主はマルタに言ったように「あなたは、このことを信じますか」と今も語り掛けています。御声に耳を傾けましょう。 マリアは、死後四日目に来た主を見て、ひれ伏して「主よ、もしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣きます。それを見た主が、霊に怒りを覚え、心を騒がせたのです。聖書の主の感情表現の中でも最も激しいものです。マリアを含めそこにいる人々の前にいるのは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたし信じる者は死んでも生きる」と言う主イエス、神の子キリストなのです。マリアもマルタと同じように主をそのような方と信じているのです。それなのに、主の言葉の意味を自己流に解釈しか出来ないのです。主は彼らにそうさせるしか無いと思わせる悪霊に憤ったのです。私達も尤もらしく思わせる悪霊の囁きに注意しましょう。主の言葉を真実と受け入れるかどうかは私達の自由です。そして大切なことは、信じるとは結果を主に期待することでなく、結果を主に委ねることなのです。主の御力と愛を信じ抜くことが主が求める信仰だからです。

 マリアもマルタと同じように、主に愚痴を言ってしまいまったのですが、その後の主への対応が大きく違っています。マルタは主が神に求めるなら、神が主に与えることを知っていると、自分の確信を主に告げました。しかし、マリアはただ泣いているだけでした。それを見て憤りを覚え、主はこの現状が何を意味するのかを人々に知らせなければと思ったのでしょう。「彼をどこに置きました」と言います。ラザロは死んでいないから「彼」なのです。しかし人々は主が死体の場所を聞いたとした思えません。死んだ人間が生きていることを、世の常識に生きる彼らは理解できないからです。聖書はここで「イエスは涙を流された」と教えます。主が涙を流したとあるのはここだけです。人々は主が愛するラザロの死を悲しんで涙を流したと思いました。しかしそうではありません。主イエスが人となって世に来たのは、主を信じた人々に神の子どもとなる特権を与える為です。「神の子どもとなる」このことを皆さんはどう考えて、どう受け取っているのでしょうか。先輩の牧師が何人かの子供を養子として育てていました。話を聞くまで全く養子だと気付きませんでした。それくらい親子関係がしっくりしていました。私達が神の子どもとなるのも、養子になることです。神の子は主イエス・キリストだけです。そして主イエスが長子である兄弟姉妹として、神は私達をご自分の子供として愛し、守り、導いているのです。私達は神を父とする神の家族です。

 主はラザロを愛していました。しかし主が涙を流したのは、ラザロが死んだからではなく、恐らく瀕死の状態にあるラザロの病気を知らせに来た使いに「この病気は死で終わるものはない」と伝えたのに、その言葉を信じられず、ただ悲しみ泣くだけのマリアを見て、主の言葉の意味を理解させまいとしている悪に支配され、絶望的悲しみの中にいるマリアや人々を見て、深く哀れに思い、涙を流したのです。そして人を支配し続ける悪に憤りを覚えながらも、その悪の力から人を解き放つ為に、墓の前に来て「石を取りのけなさい」と命じます。マルタは当然「素よ、もうくさくなっています。もう四日目ですから」と。彼らが石を取りのけると、名を上げて「父よ、私の願いを聞いて下さったこを感謝します。」そして「あなたが私を遣わされたことを、彼らが信じるようになるために」と言ってから「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫ぶと、彼が葬られた時の姿のままで出て来たのです。ラザロが病気で死んだのは確かです。マルタとマリアを始め多くの人が目撃者しました。死でその人生が終わり、死が別離の時となる世界が、主が世に来て、神が直接人の人生に関わる世界になっているのです。その事を知らせる為に、主は多くの奇跡を行ったのです。何故かと言うと、勿論、その奇跡を必要とした人々が人々がいたからです。でもそれ以上に、人々がそれらの奇跡を見て、その時は驚き、そのような事を主イエスにさせる神を褒め称えても「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の例えのように、直ぐ忘れてしまったからです。その人の弱さを知るから、神はイエスの求めに応えてラザロの奇跡を行ったのです。人の人生は、肉体の死で終わるものではなく、主を信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはないことを、彼の人生が病気の死によって終わらなかったことを、人々に明らかに見せることで、神が御力をもって人の世界に、人生に関わることで、新しい神の時が始まっていることを人々に示したのです。

 昇天した方々を偲び礼拝を守っていますが、この方々も確かに死にました。でも主を信じた人は永遠に生きています。ですから私達がこの世での人生を終え、肉体は死んでも私達の人生も終わりません。この人々に再び会えます。主は私達にも「あなたは、このことを信じますか」と問い掛けているのです。主を信じましょう。再び会えると信じましょう。主は生きている者と死んでいる者の主です。そう信じると、この世での人生に終わりが来ても、私の人生は永遠に続くと信じ、この世の人生を、生き生きと安心して生きられます。