メッセージ(大谷孝志師)
空の鳥、野の花を見よ
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2024年2月25日
マタイ6:26−31「空の鳥、野の花を見よ」 牧師 大谷 孝志

 昔、シドニー・ポワチエ主演の「野のゆり」という映画を見た。彼のほお牛によって、人間的にみれば何も期待できない状況の中で、新しい教会堂が建てられていく物語。この聖句を映像化しようとの思いが感じられた映画だった。舞台は、ドイツから来た尼僧達の修道院。修道院長マリアの言動は、彼でなくとも腹を立てたくなるもの。しかし、彼女は一途に主を信じ、主が教会堂を与えて下さることを信じ、祈り続けていた。突然現れた彼に、自分達の祈りに応えて主が彼を遣わしたと信じ込んでいた。しかし彼女は、彼に感謝を表さず、ただ主に感謝している。これは、主に感謝するだけで、人に感謝することを忘れがちな≪宗教者の独善的一面≫を皮肉っているなと私は感じた。それは兎も角、この映画は、徹底して主に寄りすがる信仰によって、大きな実が結ばれると教えられる映画だった。

 私達は、生きている限り、様々なものが必要。しかし、ルカ10:41-42で主がマルタに言ったように「必要なことは一つだけ」。大切なのは「神の国と神の義を求め、そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられる」との信仰。マルコ10:15で主が言うように「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決して神の国に入ることができ」ないから。私達も、先ず神を素直に信じよう。

 主は、空の鳥や野の花が神を正しく信じているから、それを見よと言ったのではない。信仰は生活の一部ではなく、信仰は生活そのもの。空の鳥や野の花のように、自然に生き、幼子のように必要なものを全てを与える神を信じれば良い。確かに明日の食べ物が無い、財布や預貯金の通帳に残高が僅かになると不安に。しかし主は「心配しなくてよい」言う。口語訳では「思いわずらう」と訳した。心配は信仰の力を弱くする一つの病気と教えられる。心配せず主に委ねれば良い。

 さて、修道院に教会堂を建てるには資金が必要。彼女達は思い付く限りの所に献金依頼をするが、悉く断られる。しかし一途に信じ抜き続ける彼女達の信仰にポワチエ演じるホーマーが動かされていく。その彼の収入と献身的奉仕に、町の人々の心も動かされる。そして町の人々の献品と勤労奉仕により、教会堂が建つ。必要なものは店にも町の人々の家にも有った。それが用いられた。それは彼女達の信仰に人々が動かされたから。私達の信仰の特徴の一つは金や物に縛られない。それは「富むことにも貧しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている」から。そして「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでもできる」と信じ、全てのものを主が与えたものとして感謝して受け取れるから。

 しかし私達は「明日は明日の風が吹く」とのんびりと構えて生きているのではない。空の撮りも野の花も、何もしないで生きているのではない。一日一日を必死に生きている。自然界から様々な栄養を摂取ながらて生きている。だから「私達の日ごとの糧を、今日もお与え下さい」との祈りは必要。与えられるから何もしなくて良いではなく、与えられることを真剣に祈り求めることが必要。それは、神は私達に必要なものを全てご存じで、神は与えると信じる祈り、神を信頼し、神に下駄を預ける祈り。それは日々を平安に、ゆとりを持ちながら、しかも精一杯努力しながら生きることを可能にする祈り。修道女達のこの祈りがホーマーをそして町の人々の心と体を動かした。だから主は「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と教える。この信仰を与える為に主は十字架に掛かって死に、復活し今共にいる。受難節、主に感謝しつつ、主に全てを委ね、主と共にこの世に生きる者となろう。