メッセージ(大谷孝志師)
私達の身代わりとして
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年3月3日
マルコ15:33-38「私達の身代わりとして」

 主イエスが十字架に付けられたのは午前九時でした。人々は十字架に付けられた主イエスをただ眺め、議員達は嘲笑し、十字架に付けた兵士達も主を罵りました。そして十二時になった時、闇が全地を覆い、午後三時まで続いたのです。旧約のアモス書8:9には「その日には ―神である主のことば― 私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする」とあります。この預言には、主イエスが何故十字架に付けられて死ななければならなかったのか、という大切なことが示されているのです。太陽が輝いている時は、神が共にいる時です。主はマタイ5:45で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもとなるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです」と言いました。神は人の悪の故に大地を呪い、大洪水をもって、箱船の中のノアの家族と全ての動物の雄と雌以外を滅ぼし尽くしました。そして神が水を引かせると、ノアの家族と全ての動物は箱船から出たのです。

そしてノアは、主の為に祭壇を築き、祭壇の上で全焼の献げ物を献げました。主はその芳ばしい香りをかがれ、人の心が思い図ることは、幼い時から悪であっても、私は、決して再び人のゆえに、大地を呪わない」と言いました。そして、人が神の思いを正しく受け取れる者となるようにと、アブラムを選び、彼の一族を神の民として祝福の源としたのです。その後も、彼の孫ヤコブの子らの十二部族をご自分の民、イスラエルとして守り導き続けました。

 その後も、神は人々が神に相応しい民となるよう、士師を立て、預言者を遣わしたのですが、人々は神の恵みと祝福には感謝し、主の愛の光の中で生きていても、御心に適う者には成れなかったのです。ですから神は、御子をイエス・キリストとして世に遣わし、神が選んだ民であるユダヤ人達に、神の福音を伝えさせました。しかしと言うか、やはり人々は、主を通して見せた神の力と恵み、素晴らしい教えと奇跡を目にしても、その時は驚き、自分達の神を褒め称えても、直ぐに元の木阿弥、一度良くなってもまた元の姿に戻ってしまったのです。人々は旧約の時代の人々の姿を繰り返したのです。

 全てを知る神はこの事もご存じでした。ですから御子を十字架に付けられて殺される為に世に遣わしたのです。そして先ずは、主イエスが、公生涯という神の福音を伝える生活をし、神を正しく信じ、神に喜ばれる生き方とはどうすることを、人として世に生きるご自身の模範的姿を通して示したのです。ですから私達は、福音書に記された主イエス・キリストの姿と教え、人々に対応する姿を通して、この世において神を正しく信じ、神に喜ばれるにはどうしたら良いかを知ることができています。しかし私達も一途にただひたすら主に相応しい生活をしているかと言うと、そうでも無いのが現実です。

 神が主イエス・キリストを十字架に付けてから約三時間、十字架に付けれた主を嘲弄し、罵った人々の姿を聖書は先ず記しています。それは主のこの世での教え、奇跡を見聞きしながらも、そうした彼らを通して、私達の信仰生活の中に潜む罪を浮き彫りしする為だったと私は感じさせられました。神は全ての人々の心の現実を、三時間全地を闇で覆うことで、人の心が罪に支配され、暗闇で覆われてしまっている事実を目に見える形で示したのです。

 主が十字架に付けられたのは、先日の犯罪人の一人が言ったように、悪いことは何もしていないのです。しかし主は十字架に付けられました。逃れることが出来ました。でも主は、それが父の御心であると知り、父に全てを委ね、主が自身が自分の意思でこの道を選び、歩んで来たのです。神に喜ばれ、受け入れられる者となることが人には出来ないので、ご自身が世に遣われ、全ての人の身代わりとならなければならないと、主が知っていたからです。 午後3時、全地を覆っていた闇が消え、日の光が再び全地を照らすと、主は大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのです。「エロイ…」はユダヤ人が日常生活の中で使っていたアラム語です。マタイの福音書では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」で、この言葉を聞いた十字架の傍に立っていた人々が「ほら、エリヤを呼んでいる」と言ったので、マタイのように、主はヘブル語で叫んだと考えられています。主が神に呼び掛けたり、神について語る時は「父」で「わが神」と他人行儀に呼ぶのはここだけです。主が御子であるのに十字架に掛けられているのは、神が父と子の関係を絶っているからなのです。ですから主は「どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んだのです。ルカとヨハネの福音書には、他にも十字架上での言葉ありますが、マルコとマタイはこの「見捨てられた」との言葉だけで、後は「大声を上げて」と記しただけです。これにより、主が何の為に十字架に掛けられ、神に見捨てられて死ななければならなかったのかを強調しているのです。

 主イエスは午前九時に十字架につけられ、取りすがりの人々やただ見ている人達の冷たい視線に曝され、議員達に罵声をぶつけられ、十字架につけた兵士達や両脇に十字架につけられた犯罪人達にも罵られたのです。ここに、神と人との関係が断絶しているので、この主の十字架が自分達の為である事も、御子を世に与えるほどに愛している神の愛も知らず、ただ自分達の世界に安住し、滅びに向かっている世の人々の姿が象徴的に示されているのです。

 そして十二時になった時、闇が全地を覆ったことも、主の十字架以前のこの世の現実を示しています。私達は世に生きていると、思い掛けない様々な出来事に直面します。病気や死であったり、事故や事件に巻き込まれたり、自分の不注意で他人に迷惑を掛けたり、逆に掛けられたりもします。失望し、絶望することもあります。先の事が分からず、人生真っ暗闇の心境になります。それは「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との主の御声を聞き、その主の教えや奇跡を見聞きしながらも、結局は、主が捕らえられると「十字架に付けろ」と叫んだ人々のように。自分達の心が闇で覆われているからなのです。それらの事が全地が闇で覆われた出来事が示しています。しかし、その闇の時代は今や終わっているのです。主が十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだからです。その罪の故に神に見捨てられ、滅びに向かって生きている全ての人の代わりに、主イエスが神に見捨てられ、十字架の上で息を引き取る時が来たからです。その声を聞いた人々が「ほら、エリヤを呼んでいる」と言います。当時は敬虔な人が助けを必要とした時、エリヤが助けに来てくれると信じる人がいたからです。しかし、主イエスは大声を上げて息を引き取りました。ご自分が死ぬことで、全ての人を救う神の計画が実行に移されたからです。そして三日後の週の初めの日の朝早く、主は復活されました。

 その日の夕方、ユダヤ人を恐れて鍵の掛かる家に閉じ籠もっていた弟子達の所に主が現れ、平安を与え「父がわたしを遣わされたように、わたしがあなたがたを遣わします」と言ってから、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言いました。そしてその五十日後、エルサレムに留まってその日を待っていた弟子達に聖霊が降り、全世界に主の福音を伝える教会の活動が始まり、今に及んでいるのです。その事を、主イエスが息を引き取られると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた出来事が表しています。神殿の幕は至聖所と聖所、神と人との間を隔てた幕なのです。至聖所は年に一度、贖罪日に大祭司のみが入ることを許された部屋です。そしてこの事によって、今や誰でも、憐れみを受け、また恵みを戴いて、折りにかなった助けを受けたいと願うのなら、直接神に願える時になったことが示されているのです。