メッセージ(大谷孝志師)
私達の為に見捨てられた主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2024年3月3日
詩篇22:1-5「私達の為に見捨てられた主」 牧師 大谷 孝志

 クリスチャンは主イエス・キリストを私の主と信じているからクリスチャン。主をどういう方として信じているか。遠い方か身近な方かは人によって異なる。

 イメージも同様で、優しい方、厳しい方、分からない方と様々と思う。私は最近、何をするにもいつも共にいる方と感じるようにしている。身が引き締まるから。イメージを聖書から他のクリスチャンから受けているが、中でも捕らえられ、嘲られ、罵られ、小突かれ、唾を吐きかけられた無残な姿は、私の心を強く打つ。

 この主イエスが十字架上で「わが神、わが神」と叫んだ。福音書の中で主はここだけで「わが神」と他人行儀に神に呼び掛けた。他は「父よ」だけ。それで、主はここで詩篇22編を歌い、自分の状況を嘆きつつも、神を褒め称え、その際補の言葉だけが残されたと考える人もいる。確かに22編は「どうして私をお見捨てになったのですか」とあるが「主よ、私から離れないで下さい。私の力よ、早く助けだして下さい」とあり、最後は「あなたは、私に答えて下さいました。…会衆の中であなたを讃美します」と言う。見捨てずに助けて下さいとの叫び。しかし主イエスのは、神に見捨てられ、関係を断たれた者としての悲痛に満ちた叫び。

 この詩には、ダビデの真っ直ぐに主に向かっていく信仰が滲み出ている。人はこの世に生きていると、思い掛けない苦しみの中に突き落とされることが。彼はその中でも真剣に主の助けを求める。彼は非常な苦しみ悩みの中で、弱く衰えていく自分を感じるが、決して絶望していない。主が私を見捨てず助け出すと堅く信じ、求めている。そして、主が自分の求めに応え、助けされたと感謝している。

 私達も神を信じ、神の愛の中に生かされていると信じているが、現実には様々な苦しみに遭う。その時彼のように心から神は助けると信じ、神に求めているか。心底信じられないのに、言葉だけ、上辺だけの祈りで、必死に主に向かっていなかったら、主との関係が切れ、主に捨てられたと思っているのと同じ。だから先ず、神に出来ないことは何も無いと心底信じ、神は私を見捨てないと信じよう。自分の心から不信仰を一掃しよう。ダビデは神を信じ、助けを求め続けた。そして神は彼に答え、彼は神に感謝し、助け主と会衆に証しをし、神を褒め称えた。

 しかし主イエスは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだ。神が苦しむ御子イエスに沈黙し、見捨てているいるから。イエスはここで、自分が深い絶望の渕に投げ込まれていることを経験している。何故か。全ての人が主イエスを信じる信仰によって救われ、神の子とされ、神に恵みと平安を与えられ、この世に生き、この世の命を終えても、永遠に神と共に生きる者となる為。神と人との関係を神が180度変えて、人を神のものとする為。主イエスは、私達がご自身の十字架の死の贖いによって、神に見捨てられる者でなくなる為に、神に見捨てられた者となり、無残な姿で、悲痛な叫び声を上げた。

 ダビデは神を信じ、神と共に生きながらも罪を犯し、絶望的状況にいる。その中で、彼は一心に神に助けを求め続け、神はその彼に答え、恵みと平安を与えた。私達は教会に来るまでは、主イエスも真の唯一の神も知らなかった。そのままでは神に見捨てられるとも知らず、闇の中を滅びに向かって歩いていた。主イエスは、その私達の代わりに神に見捨てられ、神と共に生きる人生の道を開いた。主の十字架の苦しみは我が為と知り、主に感謝し、私達もダビデのように、ただ一途に心を神に向けて祈り求めるなら、神が願いを叶えると信じ、日々を生きよう。