メッセージ(大谷孝志師)
新しく神の家族とする為に
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年3月10日
ヨハネ19:25-27「新しく神の家族とする為に」

 主イエスの十字架の側には、イエスの母マリアとその姉妹、そしてクロパの母マリアとマグダラのマリアが立っていました。他の福音書では女性達は、遠く離れた所から、立ってこれらの事を見ていました。ヨハネだけが彼女達が十字架の主の側にいて、12弟子の一人の主の愛する弟子もいたと記します。

 復活し、今も私達と共にいる主イエスは、今日の聖書のみ言葉を通して、主イエスを信じ、共に礼拝している私達の互いの関係に付いて教えています。

 聖霊によって身ごもり、ユダヤのベツレヘムでうんだ嬰児を、マリアは不衛生でなくても、ベッドではなく、飼馬桶に寝かせるしか有りませんでした。しかし、御使いにこの嬰児が主キリストと知らされたと羊飼い達に聞いて、驚いたでしょうが「マリアは、これらのことをすべて心に収めて、思い巡らしていた」とルカ2:19に記されています。その後、エルサレム神殿で預言者シメオン達にも我が子の将来について知らされます。その後ガリラヤのナザレに戻りますが、主が十二歳になった時、慣例に従って、過越の祭の時にエルサレムに連れて行きました。帰途の途中で我が子がいない事に気付きます。イエスはエルサレムに留まっていたからです。両親が捜しながらエルサレムに着くと、主は神殿で教師達の真ん中に座って、話を聞いたり、質問したりしていたのです。両親は見て驚き、マリアが「どうしてこんな事をしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです」と言います。するとイエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることをご存じなかったのですか」と答えたのです。しかし当然、両親は理解できませんでした。その後ナザレに一緒に帰ったイエスは、両親に仕え、マリアは「これらのことをみな、心に留めておいた」と2章に記されて言います。

 そして主イエスはおよそ三十歳になると、神の福音を宣べ伝える公生涯に入り、家族と別れ、多くの弟子達と生活を共にします。ですからマルコ3:21には、人々が「イエスはおかしくなった」というのを聞いて、連れ戻しに出かけたとあります。三十年以上一緒に生活していても、主の家族は主イエスがどんな方であるのか、全く分かっていなかったのです。私達も主イエスを信じ、救われ、神の養子として受け入れられ、主を長子とする神の家族です。しかし同時に、長い間一緒に生活している家族がいます。その家族は恐らく、私達が神の家族であること、私達がどんな思いで自分の人生を主と共に生きているのかは全く分かっていないと思います。後輩の神学生が、献身して神学校に行くと父親に言ったら、そんな事は許せない、どうしてもやめないのならお前を殺して自分も死ぬと、包丁を持って追い掛けられたと話しました。

 私の場合は、関東学院大学神学部に行くと決めた時、牧師がまだ未信者だった私の両親に説明に来ました。その時母が「この子が生まれて間もなく『17歳の時にお前から離れる』と御告げを受けたので、一人っ子でも仕方がないと諦めています」と話したそうです。パウロがガラテヤ1:18で「母の胎にある時から私を選び出し、恵みをもって召して下さった神が」と言うように、神は私を私の母の子として生まれさせ、御心によって結ばれた家族としていたのです。そして、牧師になって20年を過ぎ、母教会の教会副牧師に就任したある日、教会事務所の前を通ると、母が泣きながら「息子が良い牧師になれるよう良く指導してやって下さい」と沼尻牧師にお願いする声が聞こえました。いつ迄経っても息子は息子。それが親心というものだったのでしょう。そして私が開拓伝道に出ると、一時間以上掛けて、夫婦で礼拝に出席しました。牧師になってからは年に一二度しか、帰省できなかったのですが、必要な時に助け手となってくれました。肉による父母ですが、神が御心によりこの私に、父と母として与えて下さったのだと、本当に心から感謝しています。

 さて、主は十字架の上から、母とそばに立っている愛する弟子を見ました。そして母に「女の方。ご覧なさい。あなたの息子です」と言います。このマリアへの主イエスの呼び掛けは、2:4のガリラヤのカナで主が水を良いぶどう酒に変えた奇跡の時にも出て来ました。この言葉自体は、よそよそしい呼び掛けであっても、敬意を欠いたり、人を馬鹿にした呼び掛けではありません。しかし主が母に「女の方」と呼び掛けたのは、いかにも不自然です。皆さんの母親も、自分の息子や娘から、「女の方」と呼び掛けられたらビックリして、何でと思うと思います。カナの婚礼の時は、主は「あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません」と、拒絶とも取れる言い方をしました。しかしここでは、主イエスの方から突然母マリアに「ご覧なさい。あなたの息子です」と言ったのです。ご自分が十字架に掛かって死んだ後の事を考え、新しい息子に母を託したのでしょうか。しかし主は、前に言ったように、約二年半家族を離れて生活していました。ガリラヤで福音宣教活動をした時は、故郷のナザレではなく、ガリラヤ湖畔カペナウムのペテロとアンデレ兄弟の母の家が基地のようなものになっていました。ユダヤで活動した時は、エルサレム郊外のベタニアのラザロとマルタ、マリアの家がそれになっていました。それに、母には主の十字架の下に迄来ている姉妹がいるのですから、母の今後の生活の為に主が言ったのではないのは確かです。

 続いて主は愛する弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言いました。彼が母も含め、全てを捨てて主に従っていたからでしょうか。しかし、主が十字架にの死が待つエルサレムに行く前に、それも最後の受難告知の直後に、彼らの母が自分達を連れて主の前にひれ伏し「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人を右に、一人を左に座れるようにおことばをください」と願ったのです。母は一緒にいるのです、それなのに何故主は彼に「マリアがあなたの母です」と言ったのでしょう。それは、そこに主が十字架に掛かって死ぬ理由と目的の一つがあったからです。私が始めて行った柏教会では、中高生は勿論、壮年、老年の人達も、牧師夫人を「ママ」、「ママさん」と呼んでいました。私は最初、不思議な感覚に囚われました。皆にも母親がいるのに、何で牧師夫人をママと呼ぶのか、中々分からなかったのです。それに教会の週報に何々兄、何々姉と書かれているのも不思議でした。一人っ子の私には理解できないことでした。しかし、教会の交わりの中に浸るようになると、教会の人間関係はこの世の関係と違うからそう呼び合っているのだと気付いたのです。教会は神の家族だからこんなに仲が良いのだと分かったのです。

 他人同士なのに気楽に付き合い、冗談を言い合い、遠慮なしに相手に注意したりしているのは、これ迄の私の人間関係の中ではあり得なかったのです。勿論、性格や相性の違いはあります。言い合いになる時もありました。しかし相手の善意を信じているのです。お互いに主イエスを信じているし、信じようと思って教会に来ているからです。お互いの間に主イエスがいるのです。先週の祈祷会で「二人が三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」とみ言葉を学びました。そうなのです。だから教会の交わりは素晴らしいのです。私達は一緒にいて安心できるのです。

 主が母に「ご覧なさい。あなたの息子です」と言い、愛する弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言ったこの言葉をヨハネが記しているのは、教会の人間関係はこのようになれると教える為なのです。私達も相手を私の神の家族と見ましょう。人間的思いで見ると難しいと思ってしまいます。だから主は「あなたの母です。あなたの息子です」と教えたのです。今、十字架と復活の主が「あなたがたは私の家族の一人一人、神の家族です」と語り掛けています。「私達は神の家族」この言葉をしっかり心に刻み直しましょう。私達を神の家族とする為に、主が十字架に掛けられ死んで下さったからです。