メッセージ(大谷孝志師)
喜びと希望の泉
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2024年3月10日
ローマ15:7-13「喜びと希望の泉」 牧師 大谷 孝志

 昔、教会員になると堅苦しくなるから嫌だという人がいた。求道者だと礼拝出席は自由、月定献金をしなくて良いし、いろいろな奉仕の依頼も来ないからと、バプテスマを受けるのを躊躇していた。私の母は私がバプテスマを受ける時、一緒に受けたいと牧師に言ったら、謡曲の会や助産婦の仕事で日曜の礼拝には半分程しか出られなかった。だから、礼拝、主への姿勢が十分ではないと断られた。父も謡曲の会の主宰者なので、キリスト者になるのにはかなりの抵抗があった。

 キリスト者になるのは、自分の為だからではなく、それが人として当然だからと分かる時にその決心が出来る。礼拝出席数、信仰理解、聖書知識の基準をクリアーすれば良いというものでもない。勿論、ある程度の準備期間が必要だがそれにも個人差が。その人がイエス・キリスト、神の愛を感じることが先ずは第一。

 では人は何故求道を始めるのか。私はキリスト者の生き方、祈り、奉仕する姿に惹かれるものを感じたから。逆に言えばこの世の生活に満たされな刈ったから。

 何でキリスト者は、いつも、何につけても喜び、感謝していられるのかと不思議だった。そのように、求道者に撮って魅力有る生き方をしていることが、キリスト者にとっては大事な事、求道者はキリスト者の生き方をよく見ているから。世の人はこの世では満たされないのを感じるから教会に来ている。だから、主キリストの愛に一人でも多くの人が触れ、喜びと希望に満たされる生き方が自分にも出来ると思うように、心を配ることが大切。だから、神の栄光を表す自分になるよう心掛けよう。今日の聖句も私達もそれが出来ると教えている。人間の私に神の栄光を現せる筈がないと思うかも知れない。しかし主を心から信じる者の姿に、求道者が心惹かれるのは事実。高一のクリスマス燭火礼拝の中で、私はキリスト者の顔の顔の輝きの中に私は神の栄光を見た。そして祈祷会で祈る人々の姿に感動し、自分もこのように生きたいとの思いが更に強くなった。求道者という人を愛することは難しい。でもパウロは「キリストは、神の真理を表す為に、割礼ある者達の僕となられました」と言う。私達も求道者の僕となるくらい気持ちを持とう。彼は「希望の神が」と言う。確かに、苦しい時、悲しい時、希望を見失う時はある。何もかも嫌だ。この人が信じられないと思うときもある。でも、信仰を持ち、祈れるということは素晴らしいこと。祈りは心闇を払ってくれる。主が全てを知ると思うと、心が軽くなる。どんな相手を受け入れても安心という気持ちになれる。「希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせて下さいますように」と、互いに祈り合える。主がそうさせてきて下さったし、これからもそうさせて下さると信じよう。主の力はいつ、どのような時に働くのか。それは自分が主の愛に捉えられている、主に受け入れられていると、心から感じられる時。主は「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出ます(ヨハネ4:14)と言う。私達が喜びと希望の泉から活ける命の水を飲めば、人を受け入れ愛せる。その水、主の力を頂いて、主の力が私の内に豊かに働く人になろう。キリスト者同士が安心して互いに受け入れ合い、愛し合う姿は未信者の人々に感動を与える。私達人間のその姿に神の栄光が現されてるから。教会の中、私達の信仰の中には、この世では見つけられない喜びと希望の泉がある、と感じ取って貰える生き方をしよう。世の人々が私達と共に喜び、栄光の主を褒め称える日が来る希望を持って。