メッセージ(大谷孝志師)
全ての人を救う為に
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年3月17日
ヨハネ19:28-30「全ての人を救う為に」

 主イエスは今から約二千年前、アラム語でゴルゴタ、英語でカルバリー、どくろの場所と呼ばれる場所で十字架に付けられました。そして約六時間後、全ての事が完了したのを知ると、聖書が成就する為に「わたしは渇く」と言われました。マタイとマルコが記している詩篇22の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の後の15節に記されている「私の力は、土器のかけらのように乾ききり」の状態になったからです。十字架刑はさらし者にするだけでなく、脱水症状から死に至らせる過酷な刑なのです。

 私達は心の中で十字架につけられた主イエスの姿を思い浮かべることができます。マタイとマルコが記しているように、主は父なる神に見捨てられ、ローマの残酷な処刑方法である十字架に付けて殺されました。主は全ての人の身代わりとなって、その罪を身に受け、その罪を神に贖う為に死んで下さったのです。私はこの時期特に、御子をそのようにした父の愛、自分を見捨てた父に従順に従う主の姿が心に思い浮かびます。そして、全ての事が完了したのを知った主が「私は渇く」と言われたと知り、私達の罪を贖う為に十字架に掛かって死ぬ道を、主がご自分の意思で歩んだ結果とは言え、その悲惨な姿を心から拭い去されないのを、私は強く感じさせられてしまいます。

 さて、この言葉を聞いた十字架の側にいた兵士達は、自分達が喉が渇いた時の為に置いていた酸いぶどう酒を海綿に含ませ、ヒソプという木の枝に付けてイエスの口元に差し出しました。すると主イエスは、その酸いぶどう酒を受けて「完了した」と言い、そして頭を垂れて、霊をお渡しになったとヨハネは記します。勿論、それは喉の渇きが癒されたからではありません。ご自身が十字架に掛けられて死ぬ事により、神の全人類救済計画の実行が完了したからです。マタイ、マルコ、ルカの福音書の全てが記しているのように、エルサレム神殿の至聖所と聖所を隔てていた幕が真っ二つに裂けて落ち、ヘブル4:16に記されているように「憐れみを受け、また、恵みを戴いて、折りにかなった助けを受ける為に、大胆に神に」近付く事が出来るようになったのです。このヘブル人への手紙の言葉は、今この世に生きる私達にとって大切な事を教えています。私達は神が身近にいることを感じながら、神に話し掛けるように祈り求めることが出来ます。それは神と同じ立場に立っているからではありません。この世と神がいる天の御国、神の国は数学で言う位置は有るが面積は無い接点だけで繋がっているのです。私達人間の方から神の国に入って神に話し掛けることは出来ません。神が私達を愛し、私達が願い求める事を接点という御霊の働きによって聞き取って下さるのです。聞き取るのは神の義務では無いし、聞き取って貰うのは私達の権利ではありません。私達を神が恵み、私達の願いを聞き届けて下さるのです。人は祈り求めることによって恵みを戴きます。しかし、神は私達の願い求めたものをその通りに与えるのではありません。折りに適った助けなのです。神は全てをご存じなのです。私達の心の内も、そして過去も現在も将来もご存じだから、その時、その場で、私達に本当に必要な事をして下さるのです。ですから私達は、、自分がどう思い、判断しようとも、自分に本当に必要な事として、それを受け取れば良いのです。それは「折りにかなった助け」だからです。とは言え、私達は神に祈り求める時に、様々な事を考えてしまいます。神に祈り求める資格が自分に無いと思い、祈れなくなる時があります。誰もその資格はありません。神は資格は必要無い、そのままで良いから、祈り求めなさいと言っているのです。これは無理だと思い、祈らずに諦めたくなる時も、無理だと思って諦める必要はありません。主が「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをして上げます(ヨハネ14:13)」言っているからです。

 私達は、主イエスの十字架に付けられて死ぬことによって全てのことが完了した世界に、今生きているからです。主は言いました「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです」。パウロは言います「私達すべてのためにご自分の御子をさえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを私達に恵んでくださらないことがあるでしょうか(ローマ8:32)」と。この世に生きている私達は、曲がった邪悪な世代の中に生きています。自己中心的、利己的考えの人々の中に、同じ資質を持つ者として生きているのです。ですからつい、自分や相手のことだけを思い、出来ない、駄目だと思ってしまいます。あきらめが先に立ってしまうのです。しかし、私達は主イエスの十字架の血によって、きよめられているのです。自分自身を見詰めてみると、悪いものが在るのに気付きます。こんな自分だから駄目なのだと思ってしまいます。しかし主の十字架によって救われているので、私達は「非難されるところのない純真な者となり傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、主イエスの十字架の死の意味を知らない世の人々の間で世の光として輝く」ことが出来るのです。ですから「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」とパウロはピリピ2章で私達に教えています。聖書は私達に神の御心を教えている大切な書物です。宝の箱です「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることが出来ます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです(ピリピ3:15-16)」。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました」とパウロが教えるように、安心して神に求めれば、神は私達に必要な時に必要なものを与えて下さいます。私達に必要なことは信じることです。主も言います「出来るならと、と言うのですか。信じる者のには、どんなことでもできるのです」私達は聖書が教えるこの新しい世界、主イエスが万物の主として支配しているこの世界に、今生きているのです。

 しかし受難節の今、主が「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだことを忘れてはいけないのです。讃美歌136に「主の苦しみは わがためなり われは死ぬべき つみびとなり かかるわが身に かわりましし 主のみこころは いとかしこし」とあります。主イエスがこのような私の為に十字架に付けられて死んで下さったから、今、主の愛と恵みを戴いて、生き生きと世の光として生きていられるのです。私達がそのような救われた者としてこの世に生きる為に死なれた主イエス・キリストは復活して、今も私達と共にいます。この礼拝の時、この場に共にいて下さいます。それだけではありません。礼拝堂を出て、それぞれの生活の場に帰るとその私達と主は共にいるのです。

 復活の主イエスはお一人です。しかし、世に生きる私達一人一人と共にいて、私達の必要に応えて、その時に必要な事をして下さるのです。主は「私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたと共にいるようにして下さいます」と約束し、私達は日々の信仰生活の中で、この約束が真実と経験しています。私達に与えられているこの御霊の働きにより、私達は主イエスが生きて共にいるという喜びを実感できるのです。主は父に見捨てられ、孤独の叫び声を上げました。しかし主イエスは言います。「私はあなたがを捨てて孤児にはしません。あなたがたの所に戻って来きます。あと少しで、世はもう私を見なくなります。しかし、あなたがたは私を見ます。私が生き、あなたがたも生きることになるからです」。この主イエス・キリストが私達の内に今もいます。感謝です。