メッセージ(大谷孝志師)
教会が教会である為に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2024年3月17日
Uテモテ4:1-5「教会が教会である為に」 牧師 大谷 孝志

 日本では他の宗教でも〜教の集まりという意味で「教会」と呼ぶものがある。私達が「向島キリスト教会」と呼ぶのは向島にあるキリスト教集会だから。キリスト教の「教」もキリストの教え。今日の個所にも「健全な教え」という言葉が。

 英語では教会をチャーチと呼ぶ。これはギリシア語キュリアコス「キュリオス(主)のもの」から来た言葉。聖書で教会と訳される言葉はエクレシアでカレオー(呼ぶ)の派生語で呼び集められた群れ、集会の意味。英語、ドイツ語、ギリシア語では主キリストとの関係が表され、キリストのもの、キリストに呼び集められた人々の集まりを意味する。日本では、ある学者が「アメリカ人は教えたがるが、日本人は学びたがる」とそれぞれの国民性の違いを言い表したが、「教会」という言葉に、キリストの教えを聞き、学ぶ所という印象を持つ人が多いのではないか。

 「教会が教会である為に」は、私達が教会に来て、教えられることばかりを求めないようにしたい。パウロは「みことばを宣べ伝えない」「絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」と言う。主が「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたと、使徒:20:35で彼は教えている。だから私達は、与える為、福音を宣べ伝える為に、キリストによりキリストのものとされて、教会に集められている。しかし、教会のイメージが、人によって違うのは確か。礼拝堂だけを考える人、会堂全体、建物ではなく、礼拝や集会に集まっている人。また、教会員だけの人、求道者も含めて考える人。動機も説教を聴きに来る為、友に会いに来る為と考える人がいるかも知れない。時間を造り出して来る人もいれば、習慣で、寂しいから、暇だから。或いは慰め、励まし、生きる力と喜び、問題解決の糸口を求めて来る人も。人には個性があるので違いが有るのは当然。でも、教会が教会である為にはそれらの違いを超えて一つになることが大切。その為には、自分が他の人々に福音を宣べ伝える為に、教会に招き入れられていると知ろう。

 パウロはTコリント11章で、聖餐式についての各々のイメージの違いから、混乱や差別が生じているので、それを正す為に聖餐の意味についての素晴らしい教えを記した。福音書が書かれた大きな理由の一つも、主の姿も見えず声も聞こえないので、人々の主のイメージが混乱する可能性が有ったから。パウロが多くの手紙を書いたのも、福音、信仰、教会生活の在り方についての混乱があったから。

 一人一人の個性や人生が違うか、教会についての考え方が違うのは当然。でも主は、教会が教会である為に、聖書を通して、教会、キリスト者はどうあるべきかを教えている。確かに教会は、その名の通り、主キリストの教え、聖書に書かれている教えを知らされ、学ぶ所ではある。しかし、教会に集められているのは、自分の人間性、品性を高め、教養を積む為、自分が清められる為ではない。キリスト者が互いに、或いは求道中の人に、家族友人を含めてこの世の人々に、福音を宣べ伝える為という主が与えた目的を、はっきりと自覚することが大切。

 その為に、私達は教会に来て主を礼拝し、祈り、罪を告白し、赦されている喜びを感じ、自分への主のメッセージ聞き取り、自分を主のものとして献げよう。パウロが言うように、教会が教会である為には、時が良くても悪くても、みことばをしっかり宣べ伝えよう。そして一人一人が持つイメージの違いを、他の人の為に自分が果たすべき役割の違いと考えよう。それにより、教会が一つの群れとなり、主のもの、主に相応しい群れとなり、教会が真の意味で教会となれるから。