メッセージ(大谷孝志師)
主が私を必要としている
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年3月24日
マルコ11:1-11「主が私を必要としている」

 次週はイースター、主イエスの復活を共に祝う日です。今日は、エルサレムに来た主を、人々がなつめ椰子の枝を振って歓迎したことから「しゅろの聖日」と呼ばれています。「しゅろ」となったのは「なつめ椰子」は中近東の植物なので、日本でよく見られる同じヤシ科の「しゅろ」と訳したからです。

 さて主はエルサレム近くの村に来た時、二人の弟子に「向こうの村に行きなさい。村に入ると直ぐ、誰も乗ったことのない子ロバがつながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて引いて来なさい。もしだれかが「何故そんなことをするのか」と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします」と言いなさい」と命じました。聖書は「弟子達は出かけていき」とだけ記します。ここに主イエスと弟子達の関係が良く現れています。誰のものか分からないものを持って来なさいと、主イエスが命じられ、彼らは素直に従ったのです。絶対服従です。しかしそれが盲従ではないことは明らかです。旧約のゼカリヤ9:9に「娘エルサレムよ喜び叫べ、見よ。あなたの王があなたのところに来る。義なる者で勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って、雌ろばの子である、ろばに乗って」と預言されています。彼らがそれを知っていたことは当然考えられます。しかしそれだけではありません。弟子達は二年半、主と生活を共にしています。多くの奇跡を目撃し、大勢の群衆が主の教えを求めて、付き従い、慰められ、励まされています。神が共にいて働き、主の求めに応え、知恵と力を与えているの知っているからです。この方は他の教師とは違う、自分達には意味も理由も分からなくても、主には意味と目的があるから、自分達にこうしろと言っているのだ。自分達は先ず主の言葉に従えば良いと考えたからです。それに、主は「子ロバを盗んで来なさい」と言ったのではありません。黙って人の子ロバを引いて行くのをとがめられたら、丁寧にお話しなさいと教えているのです。私達の信仰生活も同じです。聖書を読んでも、祈っていても、意味も理由も分からず悩むことがあります。そこで大切なことは、これは聖書のみ言葉であり、自分は主イエス・キリストに祈っていると気付くことです。主は生きていて、私に関わっているのです。私の主であり、私に信仰と希望と愛を与えている方なのです。聖書を読んでいて、祈っていて「こうしなさい」と主に直接言われた時は勿論ですが、日常生活の中で、これで良いのか、こんな事になって、後はどうなるのかと悩んだ時、先ず主を信じてしてみる、されてみることです。

 弟子達が主の言葉通りに出掛けて行くと、表通りの家の戸口に、子ロバが繋がれているのを見つけました。主が言った通りだったのです。全ては主のみ心のままなのです。主がいる所、そこが神の国と聖書は教え、それを信じるかと問い掛けています。するとやはり、そこにいた人々が「子ロバをほどいたりして、どうするのか」と言います。弟子達が主に言われた通りに話すと、子ロバを連れてくことを許してくれたのです。何故このようなことが起きたのでしょう。それは主が、義なる方、柔和な方、勝利を得る方として、エルサレムに来る方と人々に示す為です。主はご自分が全ての人の主であり、救い主であることを、世の人が知る為に、同様に、主は私達が主の証人として生きることを必要としているのです。そして主が必要とする時、私達に関わってきます。神はこの教会を、神の教会として世の人々の救いの為にこの地に建てたのです。そして私達をここに招き入れているのです。家族、友人、知人に主の福音を伝える為に私達を「主がお入り用なのです」。聖書の言葉、御霊の言葉、或いは人の言葉が、私達の心に響くのを感じた時、その時こそ、私達が主の御用を果たす時、主をお乗せして人々の救いの為に生きる時です。その言葉を、その為に私達に届いた言葉と信じ、心から主に仕えましょう。

 さて、子ロバです。イエスは大人です。主を乗せて歩くのはとても大変だったでしょう。しかし子ロバは最後迄、エルサレム神殿迄、主を乗せて歩き通したのです。私達も自分の信仰生活を考えると、主を証し切れないと思ってしまう時があります。こんな弱い、だらしない自分ではと思ってしまうからです。では何故、ゼカリヤは義なる勝利者である王が、子ロバに乗って来ると預言し、主イエスも子ロバに乗ってエルサレムの町に入ったのでしょう。人々がこの方こそ私達の王だと安心し、喜び溢れて歓迎する姿で主は来ませんでした。ろばの子に乗って来たのは、人の力によってではなく、神の力によって新しい時代が始まることを示す為だったのです。どんな人でも、主イエスを信じるなら、その人もその人の家族も救われる時が来ると示す為です。

 しかし、主がろばの子に乗って来たのは、その理由だけではありません。救われる為には、この方、主イエス・キリスト以外には救いはありません。この世界には、主イエスのほかに、私達が救われるべき方はいないからです」と世の人々に伝える人が必要だからです。この事を大胆に告げたのはペテロです。しかし彼は、主が最初に「人の子つまりご自分は、多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」と弟子達に教え始めた時、その主を脇にお連れして、いさめました。この「いさめる」は、この後の主が「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言った時の「叱って」と同じ言葉なのです。それに彼は、主がユダヤ教の指導者達に捕らえられ、連行された大祭司の家の中庭で「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」と言われ、三度その事を否定しました。主と一緒に生活していても、自分中心、自分大事にとしか考えられない弱さを持っていました。しかし彼は、使徒達の中心的役割を果たし、聖霊に満たされ、福音を全世界に宣べ伝える主の証人として大きな働きをしました。彼も信仰的弱さを持つ人間でした。しかし、主はそれを知り、その彼に「わたしは、あなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」と言いました。彼の働きの力強さ、素晴らしさは、この主イエスの祈りが有ったからなのです。彼も子ロバだったのです。私達も子ロバです。でも、主イエス様をお乗せして、自分の家族、友人知人の所に連れて行けるのです。子ロバは大人の主の重さによろよろしたかも知れません。でも頑張ったのです。主が十字架の死が待つエルサレムに行くのに、子ロバが必要だったように、世の人々が福音を聞き、主イエスを信じて、救いの喜びを知る為には、子ロバのように弱い私達ですが、私達が必要なのです。私達も、主イエスをお乗せして世の人達に福音を伝えることができます。主が湧き上がるような喜びを、力を与えるからです。私達も、子ロバになって主に会わせてくれた人々がいたから、今、この教会にいます。

 さて、子ロバに乗って来たイエスを、人々は大歓迎をしました。しかしその数日後、人々はそのイエスを「十字架に付けろ」と叫んだのです。私も教会に行き始めて、主イエスを信じて救われた人々により、主の素晴らしさを知りましたが、主イエスが私の為に十字架に掛かって死んだことも、復活して今も私と共に生きていることも信じられませんでした。しかし私は変わりました。主の御声を聞いたからです。エルサレムの人々も変わりました。使徒2:41に、ペテロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人程が仲間に加えられたと有るからです。この日は主の復活後50日目の聖霊降臨の日です。聖霊の働きにより、新しい驚くべき事が私達にも起ます。その為には聖霊が働く為の受け皿、器が必要です。世の人々の救いの為に「主がお入り用なのです」復活し、今一人一人と共にいる主のみ言葉が心に響いたら、主に従いましょう。主は私達を用いて豊かな実を結ばせて下さいます。