メッセージ(大谷孝志師)
主が復活した朝に
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年3月31日
マルコ16:1-8「主が復活した朝に」

 主イエス・キリストが十字架に付けられ、死んで葬られたのが金曜日でした。その日を含めて三日目の日曜の朝、主が復活されました。今日は、主イエスの復活を共に祝うイースターです。「安息日が終わって」とあるのは、十戒で土曜が主の安息日で、いかなる仕事もしてはならないと定められているからです。この日は、生存に関すること以外の行為を禁じられていましたので、亡くなった主の体に防臭の為に油を塗るのも当然禁じられていたからです。マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、買っていた香料を持って、週の初めのこの日の早朝、日が昇った頃、墓に行きました。その墓は、ルカ23:53に「まだだれも葬られていない、岩に掘った墓」と書かれています。

 墓の入り口には石を転がしてありました。ですから墓に向かった彼女達は、「誰が墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合ったのです。入り口の石は墓の盗掘を防ぐ為のものですから、彼女達も無理だと分かっていました。ですから「誰が転がしてくれるでしょうか」と話し合ったのです。転がしてくれる人がいなければ墓には入れないし、主の体に香油を塗れません。しかし、マグラダらのマリア達は墓に行くという行動を起こしたのです。

 今年は主の復活の意味を話す前に、先ず、この彼女達の行動の意味を話します。彼女達はどこに、何の為に行こうとしたのかというと、十字架に掛かって死んだ主イエスの死体が納めてある墓の中に行き、死臭を押さえる為に香油を塗ろうとしたのです。しかし、主は三度の受難告知の度毎に、ご自分は死刑を宣告され、殺されるが、三日後にはよみがえりますと教えています。彼女達も、主に従う群衆の中にいて、この事は聞いて知っていた筈です。しかしヨハネの福音書には、このマグダラのマリアが復活した主イエスに会い、彼女が弟子達に「私は主を見ました」と言い、主の言葉を伝えたのですが、その日の夕方も、彼らはユダヤ人達を恐れて、戸に鍵を掛けて閉じ籠もっています。復活の主に会った話を聞いた弟子達ですら信じられなったのですから、主が遺体のままだと思い、香油を塗りに行こうとしたのは当然でした。

 さて、彼女達は自分達に石をどかせられないと分かっています。ですから「誰かが」と話し合ったのです。私達もこの世に生きていて、これをしたいけれど、絶対無理だろうなと思うことがあります。でもどうしてもしたい、誰か手伝ってくれないだろうかと思った経験があると思います。ここで大切なのは、彼女達とイエスとの関係です。彼女達は自分の為に行動を起こしたのではありません。愛する主イエスが死んでしまった。その悲しみと共に、生前の主から受けた様々な事柄を思い起こし、正に、哀悼の誠を捧げようとしているのです。主イエスは死んで、もうこの世にいないと彼女達は思ってはいます。でも彼女達にとっては、主は自分達の心の中に生きているのです。更に大切な事は、死んでしまったけれど、主の近くに行きたいと思ったことです。今の私達のように、主が復活して今生きているとは思っていないのは確かです。しかし、死んだ今も主との関わりを持ちたいと思ったのではないでしょうか。私はこの箇所を読んでいて、今の私達の信仰生活の在り方に通じるものがあるのを感じたのです。私達は主イエスが私達の罪の為に死んで下さったという事実を知っています。でもその事の重みをどれ程感じているでしょうか。心から主に哀悼の誠を献げているでしょうか。二千年前の話で終わっていないでしょうか。聖餐式で主の体と血を自分の内に戴いていますが、主が自分の内に生きているのを感じ、その思いを大切にして世に生きているでしょうか。彼女達は主との思い出を心に刻んでいたらから墓に向かったのです。私達も自分の信仰生活の中で、主の恵みを沢山戴いていると思います。この思いを込めて、心をしっかりと主に向けて主に近付きましょう。

 彼女達は「誰かが石を転がしてくれるかもしれないと期待して墓に来たのでありません。不安の中で、何の当てもないまま、兎に角、主イエスの遺体に油を塗りたい、その一心だけで墓に来たのです。大切なのはその心なのです。私達も何かをしたいと思う時、こうなれば良いと思う時、大切なのは、その事に心を向けるのではなく、主に一心に心が向いているかどうかです。彼女達にとって主イエスは既に死んでいます。主が生きて自分達に関わってくるとは思ってもみなかったでしょう。私達は主イエスを信じています。でも、その主イエスが今、生きて自分に関わっていると、心から信じているでしょうか。私は長い間牧師をしていて、説教と牧会に心を砕いてきました。主イエスが私に関わってきていると信じるから、それを続けていられるのですが、時として、恐くなり、それを心の内で否定している自分を意識した時が何度かありました。自分の内にある欺瞞、どうしようもない罪人の自分の全てを主が知っている、主に知られていると分かっている。その罪から抜け出せない自分が厭になりながらも、牧師を続けなければなりませんでした。しかし、或る時から自由になりました。何をするにも、先ず主に語り掛けてするようになったのです。勿論忘れる時もあります。しかし主は私の心を探り知り、私や相手にとって良い方向に導いていてくれた経験を何度もしました。私は、主がこの私を赦し、願うことを実現してくれたと感謝しています。

 神は、彼女達の思いを大切してくれ、主の近くに行きたいとの思いを実現したのです。彼女達が目を上げると、石が転がしてあるのが見えたからです。「石は非常に大きかった」事実が、それが神の御心であると示しています。

 さて、彼女達が墓の中に入ると、真っ白な衣を纏った青年が右側に座っているのが見えたので、非常に驚きました。それは明らかに御使いです。御使いは「驚くことはありません」と言いますが、驚いたのは当然です。ですから彼女達は、墓から出ると逃げ去ったのです。震え上がり、気も動転したからです。誰にも何も言えないほど恐ろしかったからと、聖書は記しています。

 これが、今から約二千年前のある週の初めの日に起きた出来事です。十字架に掛かって死んだ主イエスはよみがえって今も、全ての人と共に生きているのです。私達は、その主イエス・キリストを信じています。しかし、世の終わりの時が来て、主イエスが目に見える姿で私達の目の前に再臨し、山上の変貌の時のように、非常に白く輝く衣で現れたら、喜び、歓声を上げるよりも、自分の罪深さを自覚させられ、私達も彼女達のように、気が動転してしまうかもしれません。しかし、私達と彼女達とは決定的に違う点があります。そのイエスは十字架で死んだイエスではなく、復活したイエスなのです。そして私達は、罪を贖われ、神の子供達とされているのです。この主イエスがヨハネ3:16で、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためであると、言われいる方と信じているからです。「永遠の命を持つ」ことは、いつまでも死なないという意味ではありません。黙示録に記されているように、神である主が私達を照らしている聖なる、新しい神の都で、神と共に住む者となっていることを意味するのです。エデンの園でアダムとエバが神と語り合えたように生きられるのです。主が十字架に掛かって死に、三日目によみがえったことによって、主イエスを信じる者にはその将来が約束されています。ですから私達はイースタのこの日、主の復活を感謝し、心から喜びを分かち合っているのです。それだけではありません。その希望を与えた神が、信仰による全ての喜びと平安で私達を満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせて下さるので、日々を元気に生きられます。私達は、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられています。そして神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。十字架と復活の主に心から感謝しましょう。