メッセージ(大谷孝志師)
今は恵みの時、今は救いの日です
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年4月7日
Ⅱテモテ4:1-5「今は恵みの時、今は救いの日です」

 新しい年度を迎え、私達向島キリスト教会はこの主題と主題聖句でこの一年を歩もうとしています。この聖句は、使徒パウロがⅠテモテ1:2で「信仰による、真のわが子」と呼ぶ福音宣教の同労者、テモテへの手紙の中のみ言葉です。彼がテモテを「信仰による、真のわが子」と呼ぶのは、彼が信仰に導いたからではありません。祖母ロイスと母ユニケがキリスト者なので、幼い頃から聖書に親しみ、主イエスを信じる者となったと思われます。パウロとテモテの出会いは、パウロの第2回伝道旅行の時のリステラででした。彼は、リステラとイコニオンのキリスト者の間で評判の良い人だったので、パウロは自分の同行者としたのです。彼はテモテを「兄弟」「キリスト・イエスのしもべ」「私の同労者」「キリストの福音を伝える神の同労者」と紹介しています。

 この手紙は彼への個人的な手紙ですが、全ての主イエスを信じる者にとって信仰と生活の基準となるみ言葉に満ちているので、聖書に加えられています。ですから今日の個所もテモテに命じたものですが、私達も自分達への御言として聞き従い。キリスト者として世に生きるよう命じられているのです。

 復活した主は、11人の弟子達が食事の席に着いている所に現れ、彼らの不信仰と頑なな心を責めました。復活の主を見た人達が言った事を、彼らが信じなかったからです。その彼らに主は「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言ったとマルコ16:14,15に記されています。

 主が弟子達と一緒にいて、全ての彼らの声を聞いていたのなら、彼らの所に現れと書かれない筈です。主は彼らの所にいなくても、彼らの言葉、心に思った事を全て知っているのです。同じように主は、私達が礼拝している時、集会している時だけではありません。人の相談に乗っている時、論争している時も、私達の言葉も心の内も、御霊により全て知っているのです。聖書を読んでいて、説教を聴いていて、祈っていて、急にある考えがひらめくことがあります。中には人の声のように言葉が響くこともあります。それは御霊の働き掛けなのです。御霊は私達がどこにいても、私達の思いを知り、私達に何が必要で、何ができるかを知り、働き掛けて来るからです。ヨハネ14:16、17で主は「私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたはこの方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるからです」と約束しました。ですから彼は、「神の御前で、また、生きている人と死んでいる人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます」と言うのです。彼は自分が父なる神と主イエス・キリストの御前に、今いると信じています。彼はこの手紙を書きながら、目の前に父なる神と御子イエスを見ているのではないと思います。しかし自分が神の国にいると信じているのです。主はルカ17:21で「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言いました。パウロはそのこと信じ、自分が神の国にいると知るので、こう命じることができたのです。私達も自分が神の国いると知ってこの世に生きるなら「今は恵みの時、今は救いの日」と信じ、時が良くても悪くても、しっかりとみ言葉を宣べ伝えることができます。実際にみ言葉を宣べ伝えようとしても、殆どの場合、高く厚い壁に跳ね返されてしまいます。先ず自分が「今は恵みの時、今は救いの日」だと信じ、主が共にいて、私の言葉と思いを相手に届けて下さる、と自分が信じることです。信じるとは、必ずそうなる、主はそうして下さると思うことです。その思いを込めて皆さんも声を出して行ってみましょう、「今は恵みの時、今は救いの日」と。

 パウロは主の御前で「み言葉を宣べ伝えなさい」と命じます。私達がみ言葉を宣べ伝えることによって、世の人々が救われるからです。私達が宣べ伝えなければ、イエス・キリストが自分の主であり、救い主であることが分からないからです。私もイエス・キリストが私の主であるとは、教会に来て、知らされるまで、考えてもみませんでした。教会の交わりの中に入ってから、教会の人達の言動、生き方を通して、イエスが私の主と知りました。主イエスを信じる者の言動、生き方の中に、御霊が働くからです。御霊がイエスがどんな方かを知らせてくれるのです。その為には、先ず聖書に親しんでいることが大切です。聖書を読む時、しっかりと目には見えないけれど自分と共にいる主イエスに向けていましょう。聖書から溢れ出ている知恵の受け皿になれます。聖書が私達に与える知恵で心が満たされるなら、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせて戴けるとパウロは言います。聖書は、主イエス・キリストが、全ての人に救いの手を差し伸べているので、主イエスを信じるなら、自分も自分の家族も救われると、私達に教えています。聖書に親しみ、聖書から主イエス・キリスト以外に、主はいない、救い主はいないと私達が確信できるなら、み言葉を宣べ伝えなさいとの命令を、心を正して聴き取り、み言葉を宣べ伝えることが、私達にも出来ます。時が良くても悪くても関係なく、世の人がどう受け取るかに関係なく、絶対にこれが必要だからと、宣べ伝える事ができます。聖書が私達に与える知恵が私達の内に力となるので、私達は押し出されるからです。私達は人間です。父なる神でも御子イエス・キリストでも聖霊でもありません。しかし、神の人には成れるのです。聖書には私達を神の人に育て上げる力が有るからです。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益だからです。聖書はただの本ではないと皆さんも分かっている筈です。でも、聖書に対する自分の思いをもう一度確認しましょう。どんな思いで、どんな姿勢で聖書を読んでいたかと反省しましょう。私達に聖書が与えられているのは、私達が神の人とされているからです。この世で生活していますが、神の国に、神のものとされて生きているのです。私という人間は私のものだと思っています。自分の意思で自分を制御できます。しかし、自分という存在はそんなに単純なものではないと感じることはないでしょうか。何か分からないけれど、別な力が自分に働き、思いとは別な方向に自分を向けさせていると感じた経験はないでしょうか。私達は神が支配する世界、信仰の世界に生きているのです。パウロは「神の御前で、また、生きている人と死んでいる人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます」と言います。彼は、神の御前、キリスト・イエスの御前にいると信じています。思い込みではなく、事実そう確信しています。

 私達は、み言葉を宣べ伝えることが出来るからそう命じられているのです。今はできる、この人にならできると思う時はあります。逆に今はできない、この人にはできないと思う時もあります。それは自分の思い込みに過ぎないと気付きましょう。やろうと思えばできるのです。今は恵みの時、今は救いの日だからです。主は言います。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです」と。

 私達はその神を信じ、その神と共に生きているのです。しかし、時が満ちて天の御国が到来し、その御国に生きるまでは、み言葉を宣べ伝える私達は、世の悪の力との闘いが避けられず、様々な苦難に直面します。主は言います「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と。十字架と復活の主イエスが私達と共にいるのです。パウロは言います。「堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分達の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と。今は恵みの時、今は救いの日」なのです。