メッセージ(大谷孝志師)
信じる者になろう
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年4月14日
ヨハネ20:19-29「信じる者になろう」

 福音書には、主の様々な出来事が違った形で記されています。復活の出来事も同様です。今日は、ヨハネの福音書に記されている主イエスが復活した日の夕方とその一週間後の出来事を通して「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」との主のみ言葉についてご一緒に学びたいと思います。

 主が復活した日の夕方、弟子達はユダヤ人を恐れて戸に鍵を掛けた家に閉じこもっていました。彼らは主が納められていた墓が空になっていて、体を包む亜麻布と頭を包んでいた布が別な所にあり、遺体が盗まれたのではないことは分かったのです。8節に「見て、信じた」とありますが、空になった墓の様子を見て主イエスが、十字架に掛けられて死に、陰府に降ったけれど、神の驚くべき力により、今、生きているとは信じたのです。更に、御使いから主が復活したと聞いた女性達の話、マグダラのマリアから、復活の主に会ったとの話を聞いて、主イエスが生前言っていたように、確かに復活したと信じました。しかし、それは弟子達の頭の中で考えたことに過ぎなかったのです。彼らが自分達の生き方を変える迄には成らなかったのです。それで、鍵を掛けて家に閉じ籠もっていたのです。そこに復活の主イエスが来て、彼らの真ん中に立ち「平安があなたがたにあるように」と言いました。主は彼らに何が必要かをご存じなのです。主は「平安を与えましょう」でも「有ると良いですね」でもなく、「あなたがたは今平安です」と言ったのです。彼らはと言えば、ユダヤ人を恐れて身を隠しているので、心が不安で一杯だった筈です。その彼らに主は「大丈夫ですよ、安心しなさい」と言ったのです。

 私達は今、平安な心の状態でしょうか。人は先の事が分からないから、不安になると恐れます。悪い事、厭な事を想像するからです。悲観主義に落ちます。逆に、楽天主義の人は、先の事は分からないけれど、何とかなるさ、人生悪い事ばかりではないから大丈夫と考えます。しかし主イエスは「今あなたがたは不安と恐れで心が一杯だけれど、あなたがたは私が復活した世界に今生きているのです。信じる者には、どんな事でもできる世界、私の名によって求めるなら父があなたがたに与える世界に生きているのです。だから大丈夫と安心していれば良いのですよ」と教えたのです。悲観主義でも楽観主義でもありません。言うならば現実主義なのです。そしてもう一つの現実を彼らに示しました。十字架に掛けられた時に釘を打ち付けられた手の傷跡、死を確認する為に脇腹を槍で突き刺された時の傷跡を示したのです。もう血は流れていなかったでしょうが、激しい痛みを思わせる傷跡です。しかし弟子達は、その傷跡を見せた主を見て喜んだのです。この「見て」が重要です。他の人達から話を聞くだけだったので、想像するしかなかった主イエスのことが、その傷を見て、確かに十字架に掛かって死んだ主イエスだ。その主イエスが復活して、今生きて自分達の前にいるとはっきり分かったからです。

 確かに「百聞は一見に如かず」です。しかしそれで終わりではありません。主は、彼らに安心しなさいと言う為に来たのでも、死んだが生きていると知らせに来ただけでもありません。神が全ての人の罪を赦す為に、主が十字架に掛かって死に、主イエスを信じれば、その人もその家族も救われることを世の人が知り、主の御名を呼び求めて救われる為には、主に遣わされ、福音を宣べ伝え、人々を主イエスを信じる信仰へと導き、主を信じ、悔い改めて、父と子と聖霊の御名によってバプテスマを受け、神に罪を赦される為に働く人が必要なのです。ですから主は、彼らに息を吹きかけて」聖霊を受けなさい」と言い、主の証人として遣わすことになると宣言したのです。私達にも「聖霊を受けなさい。私はあなたがたを遣わす」と語り掛けています。主の証人と成りましょう。私達も主が実現した平安の世界に生きているからです。

 さて、十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、主イエスが来た時、彼らと一緒にいなかったのです。そこで、他の弟子達は彼に「私達は主を見た」と言います。すると彼は「私は、その手に釘跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言ったのです。ここに「信じる」ことの難しさが明らかにされています。彼を含め弟子達は、主が十字架に掛かって死んだけれど、復活したとの情報は得ています。マルコとルカの福音書も、彼らが主が復活したと聞いても信じなかったことを繰り返し記してます。マタイには、主に指示された山に登り、イエスに会って礼拝したのに、復活した主イエスかどうか疑う者もいたと記されています。

 しかし他の弟子達は、トマスがそう言うのを聞いても、一週間の間彼を納得させようとしたとは記されていません。主イエスの復活という出来事は、人が自分の言葉によって相手を納得させられるものではなく、相手自身が主イエスと出会うことによってのみ、信じる者になれる、と聖書は私達に教えているのです。そして八日後、弟子達は再び家の中にいて、今度はトマスも一緒にいました。不思議なことに。戸には鍵が掛けられていました。これは不審者の侵入を防ぐ為ではなく、明らかにユダヤ人が自分達に害を加えようとして入るのを防ぐ為です。つまり、一週間前と弟子達の心の状態は変わっていないのです。復活した主イエスが彼らに現れて、二度も「平安があなたがたにあるように」と言ったのにです。主は再びやって来て、前と同じように彼らの真ん中に立ち「平安があるように」と言いました。彼らが今、神が与える平安の中に生きていると心から信じないから、心から安心できないのです。ですから主は再び彼らの所に来て、あなたがたは平安なのですよと言ったのです。主の弟子達への思いを想像すると、信じることは本当に難しいことなのだと改めて思わされます。そして主は人のその状態を知るので、何度も働き掛けて来るのです。そして頑ななトマスの心を疑いから解き放つ為に「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語り掛けたのです。私はここではっとさせられました。私はこの教会に牧師として赴任して以来、主が不思議な形で祈りを叶えて下さったという経験を何度もしています。主は生きていて、祈りに応えるだけでなく、具体的に求めていないものを与えて、大きな喜びで心を満たしてくれています。しかしまだ、今この教会にこうなって欲しいと願う事がいくつかあります。それをエリコの町から出て行く主に「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と願い続けた人のように、必死になって願い続けてはいないのではと気付いたからです。祈っていても、ガリラヤの主が指示した山で、主に会っても疑った弟子達のように、半信半疑の状態だったのでした。トマスのように信じたくても、納得できず、信じ切れるだけの証拠が欲しいと思ってしまうのです。

 その自分に気付いた時、その私に「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と主に語り掛けられているのを感じたのです。

 私達は主イエス・キリストを信じています。その主は私達の罪の為に十字架に、手足を紐で結び付けられるのでは無く、より残忍な方法の釘で打ち付けられ、その死を確認する為、脇腹を槍で突かれた主イエス・キリストです。その主が「あなたの為に十字架に掛かって死んだ私です。よみがえって今、あなたと共にいます。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語り掛けているのを感じたのです。勿論、御声が聞こえたのではありません。私達はその主イエスを信じているのです。主は「信じる者には、どんなことでもできるのです」と言います。そうです。私達も信じることができるのです。主は願いを叶える方です。信じない者ではなく、信じる者になりましょう。