メッセージ(大谷孝志師)
共に歩いている主
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年4月21日
ルカ24:13-35「共に歩いている主」

 「ちょうどこの日」と有りますが、今週も主イエスが復活した日に起きた出来事を通して主の復活の意味を学びます。弟子達の内の二人が、エルサレムから60スタディオン、約11㌔離れたエマオという村に向かっていました。彼らはこの朝、主イエスが埋葬されている墓に行った女性達から、墓の中に主の体が見当たらず、まばゆいばかりの衣を着た二人、御使いに、主イエスはよみがえったと聞かされたと報告を受けた、11節の「この話は戯言のように思えたので、使徒達は彼女達を信じなかった」人々の中の二人なのです。

 彼らが話し合っていた「これらの出来事すべて」は19-24に記されています。彼らが話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らと共に歩き始めたのです。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかったのです。36節には、彼らがエルサレムに戻り、十一人とその仲間に道中で起こったことや、パンを裂いた時に主イエスと分かった次第を話していると、突然、主イエスが彼らの真ん中に立ち「平安があなたがたにあるように」と言います。彼らは脅えて震え上がり、幽霊を見ているのだと思いました。彼らは主イエスの姿をその目で見ました。

 聖書は、霊の体によみがえった主イエスは、自由に姿を現し、消えます。そして、私達の目に見えなくても、共にいて、私達にみ言葉により、真理を教えている方と教えているのです。主イエスがよみがえって生きてると知らされても信じられず、エルサレムを離れ、故郷のエマオに帰ろうとする二人にはこうすることが必要だから、先ずは彼らと一緒に歩き始めたのです。

 二人は何故、話し合い論じ合っていたのでしょう。師と仰ぎ、従っていた主が死んだ事実と復活した知らせについての考え方、理解が違っていたからです。でも全てが違っていたのではありません。主が「神と民全体の前で、行いにことばにも力のある預言者でした」という事実については一致しています。ですから「この方こそ、イスラエルを解放する方が、と望みを掛けていました」。これも議論する必要のない事実です。しかし、その後が違います。主イエスはこういう方で、こういう事をしてくれるだろうと期待していた彼らは、思いも掛けない現実を突き付けられたのです。主が無抵抗のまま、ユダヤ教指導者達に捕らえられ、裁判に掛けられ、死刑を宣告され、ローマの手により十字架に付けて殺されることを目撃しなければならなかったのです。

 何故主イエスは無抵抗のまま死地に赴いたのか、イエスを通して力強く働いていた神は、イエスがこのように扱われるのを何故許したのか。二人はそれぞれ、自分がこう思う、いやそれは違うと、自分の考え方、理解の仕方が正しいと主張し合い、論じ合っていたのです。彼らは礼拝や集会の時だけに教会堂に来る私達とは違います。マルコ10:28でペテロが「私たちは全てを捨てて、あなたに従って来ました」と言うように、主イエスのようなユダヤ教の巡回教師の弟子は、家や家族を捨て、人生を懸けて師に従っていました。主イエスは自分達の人生そのものだったのです。十一人とその仲間達がいるエルサレムを去り、自分達の村に帰る彼らは裏切られたとの失望感で心が一杯だったのです。しかし彼らは、初めに言ったように、主イエスの復活の事実を知らされています。主が死んで三日目に仲間の女達が墓に行くと、死体が見当たらず、御使い達にイエスは生きている告げられたし、男性の仲間から、墓に行くと女性達の言った通りだったとの報告を受けています。彼らは主と共に旅をする中で、神の偉大な力により起きた事を経験してはいます。しかし、神についての考えが変わっていないのです。神を自分の常識の中で考えることしかできないので、目撃者から聞いたことが事実と分からなかったし、主イエスが復活し自分達と一緒に歩いていると分からなかったのです。

 さて、二人のの話を聞いていた主は、彼らを一喝します。「ああ、愚かな者たち、心が鈍くて、預言者達が言ったことをすべて信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」と。二人は正に8:10で主がイザヤ書を引用して「彼らが見ていても見ることなく、聞いていても悟ることがない」状態だったのです。彼らは他の弟子達や女性達と共に、主イエスが、祭司長達や律法学者達に引き渡され、彼らが主を死刑に定め、異邦人が引き渡された主を嘲り、唾をかけ、鞭で打ち、殺したことを知り、主が三日目によみがえることも聞かされているのです。彼らは群衆の中で、離れた所から見ていたと思われます。この主イエスこそが聖書に預言されているキリスト、救い主なのです。神が預言者を通して知らせていた救いの出来事が、今、自分達の目の前で起き、神が預言した事実を見ているのです。でも、彼らは自分達が見ていることが何なのかが、全く分かっていないのです。戯言のように思い、信じられず、この二人も失望し、落ち込み、故郷の自分の家に帰ろうとしていたのです。

 さて、主は厳しく叱責しただけではありません。モーセや全ての預言者達から始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かしたのです。キリスト者にとって、これが一番重要なことなのです。聖書を読むことは大切です。日本語で書かれていますから、誰でも何が書いてあるかを理解し、他の人に内容を伝えることはできます。聖書を読むことで、今迄知らなかった事を知ることができた喜びはあります。しかしそれは、自分がこれ迄の様々な経験の中で得て、蓄積した知識によって判断したものに過ぎません。。パウロがⅡテモテ3:16で言うように「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」なのですが、自分が神の霊感の受け皿になっていないと、聖書に書かれていることの本当の意味を理解できないのです。ですから、キリスト教について、イエス・キリストについて知りたいと思って聖書を読んでも、「分からない」で終わってしまう人が多いのが現実です。この二人も主の弟子達ですから、主イエスと生活を共にし、身近にいて、その教えを聴き、様々な奇跡を見ていた筈です。しかし、その主が捕らえられ、殺されると、それが自分達が神の子どもとされ、永遠の命を与えられる為であることが分からず、絶望し、家に帰ろう、元の生活に戻ろうとしたのです。しかし主は、その彼らをそのまま放置しなかったのです。彼らはかつて、主イエスに出会い、この世の生活を捨て、主の弟子となり、主イエスと共に生きる生活を選んだのです。主はその決断を大切にされる方なのです。私達も、主イエスを信じ、救われていても、自分の生活の中で、失望し、落ち込み、挫折を経験することがあります。しかし主は、主を信じ、生き方を180度変えた私達のその決断を大切に思っていています。放っておかないのです。悩み苦しんでいる私達に、彼らにしたように、共に歩み、何を考え、どう生きようとしているのですかと語り掛けているのです。

 もう一度聖書に向き直り、この聖句はどんな意味かを考えましょう。聖書に耳を傾けるなら、彼らのように、心が内で燃えるのを経験できます。御霊が働くからです。聖書を読み、説教を聴く自分の姿勢を顧みましょう。何でこんな事が今迄分からなかったのかとハッとするかもしれません。彼らのように主に一喝された気持ちになるかもしれません。それは彼らのように主が本当に分かった時、恵みと喜びと感謝の時なのです。気付かない彼らと主が共に歩いていたように、主は私達が気付かなくても、共に歩いている方なのです。私達が生き生きと生きるキリスト者でいて欲しいのです。私達自身の為だけでなく、私達の家族、知人友人の為にそれが必要だからです。主はインマヌエルの主です。「神我らと共にいます」。これが私達主イエスを信じる者の現実と知り、心に、共に歩む主を感じながら世に生きる者になりましょう。